28.西洋風蝶草 Spider Flower

「なぜ停戦に応じない……!」


 戦場に張られた天幕の中。届けられた書状をグシャリと握り潰してソルジャー伯爵は呻いた。幾度目かもわからない降伏勧告への返事は、またも停戦には応じないというもの。


 西の隣国、クレオメから唐突に宣戦布告が送られてきたのが10月。そこからすでに3ヶ月以上、国境への断続的な攻撃が続いている。

 向こうが有利な戦況、もしくは市街や農村部にも被害が多く出ている状況であればわかるが戦場となっている国境の緩衝地帯から押されることなく、両軍が衝突する度にイフェイオン側が圧勝している。ただ、停戦には応じないとそれだけだ。こちら側から求めるのは賠償金のみだというのに、それすら払いたくないということか。


 ため息をついてふと手元を見れば、握りしめたままだった書状が目に入る。アクイレギアはさらに深々とため息をついて書状のシワをいそいそと伸ばすと、イフェイオン王ドゥリオ・グランディフロルスへの書状を付け加えて王宮あてに飛ばした。水の根を使うわけにはいかないが王国各地に潜んでいるソルジャー家の兵を伝うので一般的な書状よりはかなり早い。


 そのままベル型の天幕を出て馬を用意すると、前線となっている国境へと走らせた。


「今日はまだ出てきませんね」


 国境は河川沿いに伸びているので、イフェイオン側の護岸を高く築いて敵の侵入に備えている。


 ロルフ・フィードラーの対岸、クレオメ王国との国境地域であるスピノサまで見渡せる砦に登ると対岸を見張っていた兵から報告が入った。


「補給は明日だ。その時に部隊も交代を」

「閣下もずっとこちらにいらっしゃいますが……」


 アクイレギア自ら先程伝令で届いた内容を伝えると部下たちは揃って眉を下げた。


「クレオメに潜ってる諜報から情報が来ない以上、動くこともできないからな」


 ソルジャー家騎士団の団長は伯爵家当主が務めるため団長はアクイレギアだ。指揮官が戦場を離れるわけにはいかない。


「もういっそスピノサ落としましょうか」


 一番若い部隊長が腕組みをしたまま物騒な発言をする。アクイレギアの年齢が35歳なので副団長はじめ隊長や部隊長らは同年代か年上となる。代替わりする以前から知るものも多く、確かな主従関係はあるが口調は砕けたものになりがちだ。


「それで大人しくなるような国なら何世代も苦労してないよ」


 実際、数世代前にクレオメの海岸部をごっそり抉り取る形で押し込めた時代もあったが、あまりの強さにソルジャー家がイフェイオン王国側から叛意を疑われてしまうこととなり、その後の講和でクレオメに領地を返上したという苦い過去がある。にもかかわらず、懲りずに手を出してくるのだから始末が悪い。


 もっとも、鉄壁のロルフ・フィードラー側と違いスピノサは領地も国も時代とともに入れ替わりが激しい。国主や領主が変わるたび「我こそは」「我が時代で」と挑戦者が送り込まれてしまう。


「東に抜けるにはウチを通る必要があるとはいえ、お安くしてるのにねえ」


 領地が魅力的なだけではなく、西国からイフェイオン東側のオーニソガラム帝国への行路を確保したい事情もあるのだと察するが、通行料を払えば通れるのだから多少の金を落とすことと人命を天秤にかけないでほしいとアクイレギアは天を仰いだ。


「どこの国の領主様もウチみたいだったらなァ」


 副団長が中年を迎えてなお美貌を損なわない領主の肩を労るように揉んだ。その時。


「敵襲です!!」


 砦の鐘が打ち鳴らされ、鎧のこすれるけたたましい金属音を立てて伝令が飛び込んできた。和んでいた空気は一瞬で霧散して表情を鋭くした男たちは一斉に動き出した。





 ソルジャー家の騎士団は槍をメインにして戦う。


 シャギーが王立騎士団の鍛錬に参加していたのも、ブッシュ・クローバーに師事していたことに加え剣を重点的に鍛えたかったことも大きい。水の豊かな土地である分、水の精霊の加護が強く出るために援護の主力は水魔法だ。魔法士の部隊が砦から魔法を放つ。


 川へ下り始めた敵軍に向けて、川底を静かに流れていたはずの水が激しくうねり生き物のように対岸を駆け上っていく。

 兵士たちが散り散りに流されていくのを確認し、魔法を防御していた残りの兵に向けて騎馬部隊が一斉に護岸を下ろうと槍を構えた。


 アクイレギアはその時、騎馬部隊の後陣に居た。


 魔法士を援護するために自身も水魔法を使っていたことで、その微かな違和感に気付いたのだ。


「下がれ!」


 声を張り上げながら前陣へと馬を駆る。伯爵の守護に着いていた部隊長が全軍に向けて引くように命令を飛ばしながら、慌てて後を追う。

 最前列はもう川底へ下り始めていた。それを追い越す勢いで前線に飛び出しながらアクイレギアが後退を叫ぶ。


 そして徐々に始まっていたそれ・・が決壊を迎えた。


 その瞬間を目にした者には、何の前触れもなく起きたように見えたに違いない。


 対岸を襲っていた水の塊が突如その制御から解放された。水槽のガラスが割れた瞬間のように、力を失った水が自然の法則に従って落下していく。

 渦を巻いて襲い掛かる水から逃れるべく自軍の兵士を護岸上まで追い立てて振り向いたアクイレギアを、高く高く鎌首をもたげた水が目に入る。


 そのままが飲み込まれて水底まで連れて行かれは──しなかった。


「お父様!」


 風にうねる金の髪。

 若葉のように瑞々しい緑の瞳。

 ソルジャー家の鮮やかなブルーに身を包んだ騎士。


 アクイレギアがこの世で最も大切にしている存在がそこに居た。 


「シャ……」

「しっかり掴まってて!」


 愛しい娘の両手が、がっちり握りしめている。


「馬に!」


 父親ではなく、父親が乗る馬の前脚を。


 そしてそのまま、馬の腹の下に潜るようにして肩に担ぎ上げて。


「ふ、ん、ぬああ、ああああっ!」


 護岸上に引きずり上げた瞬間、盤を叩くような激しい音とともに二人(と一頭)の背後を水の渦が抉っていった。


「シャギー、その」


 とりあえず馬から降りたアクイレギアは何から聞けば良いのかも分からず呆然と目の前の娘を見る。


「来る途中でお兄様から急ぐように言われて。アイリスが教えてくれたんです、時期が変わったと」

「そう、か……」

「間に合って良かった」


 そう言って涙ぐむシャギーを抱きしめる。どれほど心配を掛けてしまったのだろう。こんな無茶をさせてしまうほどに。不甲斐なさと、愛おしさと、安堵と。言い尽くせない感情がアクイレギアの心から溢れ出る。


「ありがとう」


 まずはひとつ目に感謝を伝えて。それから、それから──


「何て言ったら良いのかもうわからないよ、シャギー。何ていうか、もの凄く……、もの凄く、なったんだね……」


 娘が逞しく育ちすぎて、どうしたら良いのかわからない父。


「閣下! お嬢様!」


 敵軍の警戒と兵の安否確認をしていた部隊長や副団長が二人のもとへ集まってくる。


「ソルジャー家の従者として失格だが、お嬢様の無茶を止めきれなくて良かった……」


 でなければアクイレギアの救出は間に合わなかったと副団長が涙ぐむ。


「不測の事態だからな。皆無事か?」

「はい。閣下がいち早く気付いてくださったので」


 対岸のクレオメ軍を見れば軍旗は遥か後方へと引いている。まるで前線の兵士達以外は何が起こるのかがわかっていたかのように。


「精霊が急速に力を失っていくのを感じたんだ。魔力は枯渇していないのに、力の伝達先である精霊が消えていくような」


 アクイレギアが眉間の皺を深くする。


「何が起きたのか把握する必要がありますね」


 部隊長達も一様に重々しく頷いた。


「それから、シャギー」

「はい!」


 会話の邪魔にならないよう口をつぐんでいたシャギーだが、急に名を呼ばれて背筋を伸ばす。


「フォールスとクローバー卿の同行はカランから聞いていたんだが……どうしてウィンターヘイゼル公のご子息が居るんだろう?」


 父が指し示す先には、少し離れた場所でこちらを見守る三人の姿。


「あー、まあ……」


 数日前にカランコエと水の根で話した内容を思い出し、シャギーは視線を泳がせた。


「えっ、なにその意味深な反応!」


 次々と衝撃が押し寄せるソルジャー伯爵の平穏はまだ遠かった。









【植物メモ】


クレオメ・スピノサ※

和名:セイヨウフウチョウソウ[西洋風蝶草]

英名:スパイダー・フラワー[spider flower]

学名:タレナヤ・ハスレリアナ[Tarenaya hassleriana]


フウチョウソウ科/セイヨウフウチョウソウ属

※ 旧属名から現在も園芸で使われる名

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