第50話 ベルンハルド

 ギルベルトの父は純血種のヴァンパイアであった。

 彼は深い森の中に居城を構え、この辺り一帯に広大な領地を有していた。

 数多のグールはもちろんのこと、ヴァンパイアさえも従えるほどに強大な力を持っていた彼の名は、ヴァンパイアの中ではずいぶんと有名だったらしい。

 彼はヴァンパイアに似つかわしくなく非常にヒト当たりのいい、穏やかな人物であった。

 好んでヒトの血肉を喰らうことはなく、逆にヒトとの共存を図り、積極的にヒトのコミュニティに参加していた。


 一方で、それを快く思わない者もいる。

 あくまでもヒトはヴァンパイアの糧であり、捕食者であるヴァンパイアは彼らよりも上位種である、と。

 城へ出入りする数少ないヴァンパイアの中にも、そういった考えの者もいたことだろう。

 だが領主の行動や信念に不満はあれど、力ある領主にかなうはずもない。表面上だけでも取り繕っていたのは保身のためである。


 しかしながら、不満を持つ連中の一人がついに行動を起こしたのである。

 その男は長い年月をかけ、領主を陥れるため入念に計画を進行させていた。

 言葉巧みに領主の妻をたぶらかし、ついには肉体関係をもつようになったのである。

 元来ヒトの生き血を好物としていた彼女はいともたやすく夫を裏切り、考えを同じくするその男にあっさりと乗り換えたのだった。



「あなた、少しよろしいかしら?」

「ダニエラか? どうした?」


 ある日、領主の妻ダニエラは夫の寝室を訪れた。

 ちょうど就寝しようとしていた男は、上体を半分起こしたまま返事をする。

 自身の胸元にしなだれかかる妻の色香に、男は珍しいこともあるものだと思いながらもその腰を引き寄せた。


 次の瞬間、彼の体に激痛が走る。

 心臓が悲鳴を上げていた。


「キャハハハハハッ!」


 信じられなかった。

 夫の上に馬乗りになったまま、ダニエラは狂ったように高笑いしている。

 痛みを訴える心臓に、磨きあげられたナイフが突き刺さっていた。

 心臓が焼けるようだった。否、実際に焼けているのかもしれない。

 それはまぎれもなく、純銀製のナイフだった。


「ダ、ニエラっ……!? なに、を……!?」


 ガードまで深く突き刺さったナイフは、肺をも貫いているらしい。

 喉以外の場所から、空気の漏れるような異様な音がしていた。

 いままで経験したことのないほどに、息を吸うのも吐くのも苦痛だった。

 苦しさに絶え絶えになりながら目の前の女をにらみつければ、彼女は口角をつり上げる。

 そして隠し持っていたもう一本のナイフを振りかざすと、恍惚とした表情を浮かべて夫であった男を見下ろした。


「油断は禁物よ。あ・な・た♡」


 体が、思うように動かなかった。

 両手を突き出してダニエラの動きを止められればよかったのだが、どういうわけか全身が鉛のように重たい。

 振りかざされた刃は、容赦なく領主の肩を貫いた。

 錆びた鉄のにおいと、肉の焼けるにおいが室内に充満する。


「ぅぐぅっ!!」

「領主ともあろうお方が、なんとも無様ですね」

「っ!? き、さま……!!」


 あざ笑うような声色とともに、一人の男が姿を見せる。

 彼こそが、領主の妻をたぶらかし、その座を奪おうと画策していた男―若き日のベルンハルドであった。


 ベッド脇に近寄った彼は、慣れた手つきで女の肩を抱き寄せる。

 そうしてとろけるようなまなざしで見上げてくる女の唇を、慣れた行為だとばかりに貪る。

 横目で領主の反応を愉しみながら、ベルンハルドはわざと水音を響かせてダニエラの口内を舌でかき乱した。

 長く伸びた銀糸が切れると、ベルンハルドはこれ見よがしにモノクルの奥の目を細めてみせた。


「長年、あなたの食事や血清に微量の純銀を混ぜさせていただきました。一度の量は致死量にはとうてい届きません。ですが、それが何十年にも渡って摂取されつづければ、どうなるかおわかりになりますか?」


 腰を揺らしながら指にしゃぶりつく女の胸を弄び、ベルンハルドはそう問う。

 彼の言葉の意味を理解すると同時に、領主は耳を疑った。

 生き血をすすることを好まなかった彼は、動物の濃い血液を凝固させた錠剤をベルンハルドに作らせていた。

 そして毎日、それをいくつか飲むという生活を続けていた。

 たとえひと粒に混入された銀が微量だったとしても、長い年月を経るとともにそれは体内に蓄積されていく。

 そして今夜、純銀のナイフで体を貫かれたことで、相乗効果のようにそれは彼の肉体に影響をおよぼしたのだ。

 どおりで、本来あるはずの回復力が働かないわけである。

 領主は己の失態に、歯を食いしばるしかなかった。


「玉座はいただきますよ。もちろん、彼女も」


 そう言ってベルンハルドは、ダニエラの背中を押す。

 反動で彼女の体が前のめりになり、あられもなくさらけ出された胸が領主の上で揺れた。

 濡れた吐息が、容赦なく領主の肌をかすめる。

 乱暴にたくしあげられたドレスの向こうで、男の動きに合わせてベッドが軋み女の嬌声が響き渡る。

 ダニエラがおもむろに、夫の心臓に突き刺さったままのナイフをつかんだ。

 律動に合わせて、何度も何度も夫の肉体にナイフを突き立てる。

 そうして高く昇りつめた感覚が爆発する瞬間、深く刺さったナイフはついに彼の心臓をえぐり出したのである。


「ぐっ……! ぐあぁぁああぁぁぁ!?」


 痛みなど、とうの昔に麻痺していた。

 領主の体はのけぞるような形で痙攣を起こしていた。

 そして瞬く間に、彼の肉体は指の先から崩れていく。

 ベッドに残ったのは、人の形をした灰の山だけ。


 自ら夫にとどめを刺したダニエラは、そんなことなど意に介さぬように快楽に身を委ねる。

 新たな夫となる男に組み敷かれたまま、彼女は淫らな嬌声を上げつづけていた。

 そのあとすぐにアリシアが誕生し、ベルンハルドは新たなる領主としてこの地を支配しはじめたのだった。



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