第12話 だからはじめに言ったでしょ
霧の奥から自分を呼ぶ声に、エルザは反射的に空間の先を振り向いた。
この声には聞き覚えがある。
そしていま、この場において彼女の名を呼び捨てにする者など、一人しか思い当たらない。
――ま、さかっ……!?
嫌な汗が背筋を伝う。
ありえないと思いつつも、エルザは地下牢の奥、霧に包まれた暗がりから姿を現した人物に目を見張った。
「どうしたの? あ、もしかして俺に会いに来てくれた? だったらうれしいな♡」
ずる、ずる、と大きな物体を引きずりながら姿を見せたのは、長身で銀髪、初対面で馴れ馴れしくエルザを口説いていた男―ギルベルトに相違なかった。
この場に不釣り合いな笑みを向ける彼に、エルザは言い知れぬ恐怖を覚える。
なぜ彼は平然と立っていられるのか。
引きずっている物体はなんなのか。
どうして何事もないように笑っていられるのか。
次々と浮かび上がる疑問の答えを見いだせぬまま、エルザは目の前の男から目が離せなかった。
口元をコートの袖でぬぐいながら、ギルベルトは引きずってきたなにかを片手で無作為に放り投げた。
それは看守任務に就いていたはずのもう一人の隊員で。
遠目に見ても、彼がすでに事切れたあとだと理解できた。
血の気のまったくない肌は気味が悪いほどに白く、ひらいたままの瞳孔が、エルザの姿を反射したまま絶望と恐怖に染まっていた。
「お前っ、ヴァンパイアかっ……!!」
「みんな、気づくのが遅すぎるんだよ」
口の端をつり上げたギルベルトは目を弓なりに細めて、転がる隊員の亡骸を冷ややかに一瞥した。
口角から覗いた大きな八重歯が、すべてを物語っている気がした。
「っ!」
エルザは瞬時にギルベルトに銃口を向ける。
自身の失態を悔やまずにはいられなかった。
いままで一度もヴァンパイアに遭遇したことがないという油断が、無意識にこの男を『一般人』と決めつけてしまっていた。
それこそ支部の隊員全員が。
「『ヴァンパイアはヒトと見分けがつかない』とは、よく言ったものね!」
「『その姿はヒトとなんら相違なく、神出鬼没で大胆不敵。ヒトだと思っていたものがそうでないと、気づいたときには……』、ってね♪」
弾むように小首を傾けたギルベルトに舌打ちをして、エルザは引き金にかけた指先に力を込める。
これ以上の犠牲者が出る前に、なんとしてもここでやつを仕留めなくてはならない。
だが次の瞬間、ギルベルトの瞳が妖しくきらめいた。
鋭い視線に射抜かれたと感じると同時に、一切の体の自由が奪われる。
まばたきすらできず、自身の体であるにもかかわらずまったく言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあったかのように、微塵も動かすことができなかった。
「な、にを……!?」
幸い声は出るらしい。
無理やりにでも喉と唇を動かせば、ギルベルトはきょとんとして首をかしげた。
「あれ? もしかして知らないの? 俺たちみたいな純血種のヴァンパイアには、特殊な能力をもつのもいるんだよ。俺が持って生まれたのは『インタフィアレンス』。他者の意識に干渉して、体の自由を奪うことができる。ま、俺の領域の中じゃ、ヒトは意識すら保てないみたいだけどね」
まるで世間話でもするかのように、ギルベルトは穏やかに微笑みながらそう告げた。
「けど……」エルザを見つめるギルベルトの視線が細められる。
「ダンピールには、やっぱり強めにかけなきゃダメみたいだね」
「っ!?」
ギルベルトの口から紡がれた言葉に、エルザは一瞬呼吸すら忘れた。
なぜ彼がそのことを知っているのかと、疑問が脳内を駆けめぐる。
エルザの存在はクルースニクの中では有名だが、ダンピールとて一見すればヒトとなんら変わりはない。ヴァンパイアと同じく見分けはつかないはずだ。
「なんでわかったのか、って顔してるね。ダンピールってさ、俺たちヴァンパイアにとってはごちそうなんだよね。きみの血は、甘美なにおいがするんだ」
ギルベルトはそう言って、自身の唇に舌先を這わす。いやに赤い唇が、愉しそうに弧をえがいた。
妙に色気を帯びたそのしぐさに、エルザの背筋がぞわりと逆立った。
ゆっくりとした歩調で、彼は動けずにいるエルザに近寄る。
ひたひたと近づいてくる恐怖に、意識が飲まれそうだった。
「だから、はじめに言ったでしょ? 『おいしそう』だって」
妖艶な笑みで静かに距離を縮めてきた男はもう、すぐ目の前まで迫っている。
手を伸ばせば届きそうなほど近くにいるというのに、エルザの体は一向に言うことを聞いてはくれない。
まばたきもできず、ひらきっぱなしのアメシストの瞳は、乾きを潤そうと反射的に涙をたたえる。
「ねぇエルザ、食べても、いい?」
「っ!」
ひんやりと冷たい指先が首筋にふれた瞬間、糸が切れたようになにかがエルザの全身を駆けめぐった。
――動け動け動け動け動けぇええぇぇ!!
エルザは引き金にかけたままの指先に全神経を集中させる。
わずかに動いた人差し指に、死に物狂いで力を込めた。
ぼんやりと揺れる視界の中で、目の前に向かってただ一発の銃弾が放たれる。
「っと」
間一髪で銃弾をよけたギルベルトは、驚きで目を丸くしていた。
銃弾のかすめた銀色の毛先が、わずかな灰となって空気中に舞う。
しかし次の瞬間には、ギルベルトは愉しそうな表情を浮かべてエルザを一瞥し、身をひるがえして彼女の握る銃を蹴り飛ばす。
そうしてすばやくエルザの背後に回りこんだ。
遠くで、銃が石造りの床に転がる音が反響していた。
唯一の武器を失ったエルザには、これ以上なす術がない。体が自由に動かない以上、もはやどうすることもできなかった。
視界が、闇に閉ざされる。
「ごめんね、エルザ。我慢できそうにないや」
背中に感じるぬくもりと腹部に回された腕の強さ。視界をさえぎる大きな手のひらの冷たさに、体の芯が震えた。
たったひと筋、頬を伝うものの正体がなんなのか理解する間もなく、エルザの意識は深い闇の底へと沈んでいった。
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