第11話 誰一人として

 特に大きな問題も起きず、平穏な昼下がり。

 早々に事務処理を終え暇をもて余したエルザは、深々とソファに腰かけたまま天井を仰ぐ。


――……ひーま。


 代行であるがゆえにむやみに外に出るわけにもいかず、かといって、これといってすることもない。

 先ほど女性隊員が差し入れてくれた焼き菓子と紅茶に手を伸ばしつつ、灰皿にはタバコの吸い殻が増える一方である。


「射撃場にでも行こうかしら……」


 そうこぼしたのもつかの間、肌に感じる空気に妙な違和感を覚え、エルザは無意識に息を殺した。

 窓から差しこんでいたやわらかな陽射しは、いまはぶ厚い雲に覆われてしまって見る影もない。

 黒い雲の向こうで、雷が小さく鳴っていた。

 太陽がさえぎられているせいで、空気が少しばかり肌寒くなってきた。そろそろひと雨きそうである。


「…………なんか、嫌なかんじ」


 火をつけたばかりのタバコの先端にたまった灰が、わざわざ隊長室に持ちこんだ私物の灰皿の上に、ポトリ、と落ちた。


――なにか、おかしい……?


 それは、急変した天気だけのせいではない気がした。


「……静かだな……」


 そう、静かすぎるのだ。まだ日中にもかかわらず、支部内に人の気配がしないのである。

 普段どおりであれば、廊下を行き交う隊員たちの足音や話し声、演習場での訓練に励むかけ声が聞こえてきてもいいはずである。

 にもかかわらず、周囲は喧騒とは無縁と思えるほどの静寂に包まれていた。

 エルザは大して吸ってもいないタバコを灰皿に押しつけると、物音を立てないように静かに立ち上がる。

 ソファの背もたれに放っていた上着を羽織り、足音を忍ばせてそっとドアノブに手をかけた。

 薄くひらいたすきまから、エルザは注意深く周囲の様子をうかがう。

 廊下の空気はひんやりと冷たい。

 耳を澄まさずとも、やはり辺りは物音ひとつしない。


――なにが起きてるの?


 体をすべり込ませるように廊下に出たエルザは、慎重に歩を進める。

 息を殺しながら、エルザは隊長室から一番近い部屋を覗く。


「っな!?」


 視界に飛びこんできた光景に、エルザはおもわず目を見張った。

 業務にいそしんでいるはずの事務方の隊員たちがみな、脱力し机に突っ伏しているではないか。所用で席を離れていた者に関しては、そのまま床に倒れこんでしまっている。

 エルザは慌てて室内に駆けこんだ。


「おい! どうした!?」


 机に沈んでいる隊員の肩を揺すり、倒れている者を抱き起こす。

 しかしいくら揺すって声をかけても、頬をたたいてみても、彼らが気がつく気配はない。まるで死んでいるかのように、みな意識を無くしてしまっていた。

 まさかと思いほかの部屋にも向かってみたが、状況はどこも同じである。


 脈もある。呼吸もある。

 だが誰一人として目を覚まさないのだ。


「いったい、なにが……?」


 あまりにも想定外の異常事態に、頭がついていかなかった。

 さすがのエルザも困惑を隠せない。


「っ……!? な、に……?」


 不意に、いくつもの細い針に全身を刺されるような鋭い気配を感じた。

 エルザはすぐさま周囲を確認する。

 神経を研ぎ澄ませ、気配の出所を探る。

 支部全体を覆う不穏な空気に交じって、神経を逆なでするようなその気配だけが、どこか異質である。

 エルザは壁づたいに廊下に出ると、気配をたどりながら歩を進める。

 ピン、と張りつめた細い糸を手繰り寄せるように、どこからか発せられる気配を慎重に追った。

 廊下を進み、階段を下りる。

 いざなわれるままに、一階フロアの奥へと足を運ぶ。

 なにかあってもすぐに引き金を引けるように、エルザは両手で銃のグリップを強く握った。

 ただ唯一、銀のサーベルを隊長室に置いてきたのが悔やまれる。


「……地下、か?」


 異質な気配は、どうやら地下へと続いているらしい。

 しかし昇降機を使うのは危険だ。下降時の独特の音で相手に気取られる可能性もある。

 待ち伏せされて、せまい昇降機内で狙い打ちにされては、たまったものではない。


――仕方ないわね。


 エルザは昇降機に背を向け、非常階段を使って地下へ向かうことにした。


――なにが起きてるのよ。


 階段を下りるにしたがって独特の気配は強みを増し、それこそ頭に銃口が突きつけられているかのように息が詰まった。

 少しでも気を抜けば、とたんに意識を飲みこまれそうになる。地上の隊員たちはみな、この異質な気配に当てられたのだろう。

 次第に強くなる気配に比例するかのように、地下に向かうにつれて辺りがぼんやりとかすんでいく。

 いったいどこから発生したのか、周囲に立ちこめた白い霧が、徐々に濃くなっていった。


――そういえば、地下にもいたな……。


 地下牢には見張りの隊員以外にあの男もいる。

 不審者極まりないが、一般人と思われる彼は無事なのだろうか。

 少なくとも、この刺すような雰囲気の中ではすでに意識はないだろう。エルザでさえ、気を張っていないと意識を持っていかれそうになるのだ。並の人間には耐えがたいだろう。

 エルザは壁にもたれながら、神経を落ち着かせるように静かに息を吐いた。


――地下にいるのは三人。見張りの二人と、あの男だけのはず。


 ほのかに漂ってくる血のにおいに、最悪の状況が脳裏をかすめた。

 視界はあまり良くはない。

 再度銃の安全装置セーフティーロックがはずれていることを確認し、意を決してエルザは壁の向こうへと踏み出した。


「っ!!」


 目の当たりにした光景に、エルザは息を飲む。

 ひらけた空間の中心。

 小さな血だまりの中に倒れているのは、地下牢の監視を担当している隊員の一人だった。

 銃を構えたまますばやくそばへ駆け寄ると、エルザは彼の首筋にふれる。

 脈はある。呼吸も落ち着いているところを見ると、多少の怪我はあれど命に別状はなさそうである。


「よかった……。生きてる」

「あれ? エルザ?」

「っ!?」



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