第21話 ここだけの話

「あっ……! あの、ごめんなさい!」


 謝罪の言葉とともに勢いよく深々と頭を下げたのは、全身に黒をまとった女性だった。

 ひかえめな大きさの帽子から垂れる黒いヴェールが、彼女の表情に影を乗せたままふわりと風に揺れる。


「急いでいたもので! ごめんなさい!」

「あ、いや……、あたしもぼーっとしてたから……」


 咄嗟にギルベルトに抱き留められていなければ、ぶつかった衝撃で転んでいたことだろう。「油断してたな」と小さくぼやきながら、エルザは恐縮する女性の顔を上げさせる。


「すいませんっ! ほんとに、あのっ」

「もう大丈夫だから」

「ねぇあなた」地面に転がった小瓶を拾い上げたアリシアが、それを女性の目の前に差し出した。


「これ、落としましたわよ」


 小柄なアリシアの手に収まるほどの、紫色をした半透明な小瓶。

 中には、なにか液体のようなものが入っているらしく、瓶の中ほどでたぷんっ、と揺れていた。


「……聖、水?」

「っ!! 返して!」


 エルザがぽつりとつぶやいた瞬間、女性は血相を変えてアリシアの手から小瓶を引ったくった。

 先ほどまでの態度とは一変して、彼女はアリシアをキッ、とにらみつける。そうして逃げるようにして、彼女は足早にその場を立ち去った。


「まったく、なんなんですの」


 力任せにたたかれた手をさすりながら、アリシアはわずかに頬をふくらませた。せっかく好意で拾ってあげたというのに、あの対応はあんまりである。

 せめて礼のひとつくらいあってもよかったのではないかと憤慨する彼女を、ダグラスがネコの形をしたキャンディで黙らせていた。


「やれやれ……。すまないねお客さん。悪いじゃあないんだ。許してやっとくれ」


 走り去っていった女性の代わりに謝罪の言葉を口にしたのは、目の前で事のなりゆきを見ていた肉屋の店主だった。


「知り合いか?」

「まぁ知り合いってほどでもないんだがな。ついこの間の、満月の夜ことさ。あのは、恋人を殺されちまってなぁ。結婚の約束までしてたってのに、かわいそうに……」


 ダグラスの問いに、店主はあいまいな表情で笑ってみせる。


「ここだけの話、そりゃひどいありさまだったそうだ。まるで鋭い爪で引っかかれたように全身傷だらけで、首は噛みちぎられる一歩手前。オレぁやったのはクマじゃねぇかと思ってるんだがな?」


 店主は警戒するようにわずかに視線を周囲へと走らせると、若干前のめりになって声をひそめた。


「あの娘は、ヴァンパイアがやったと思いこんじまってるんだ」


 喧騒の中で、店主の声がやけに弾んでいるように聞こえた。

 エルザはおもわず、無言のままギルベルトに視線を送る。


「俺じゃないよ……! 同性の血なんてよほどのことがなきゃ、まずくて飲めたもんじゃないし」


 聞いてもいない事実とともに、ギルベルトは即座に小声で否定した。後半の言葉が店主に聞こえていないのが救いである。

 店主はギルベルトたちの都合などお構いなしに、自分の知る女性の身の上について揚々と話を続けていた。


「それ以来、聖水を手放せなくなっちまってなぁ。あんな高価なもん、いったいどこで手に入れたんだか……」


 仮にも客の前だというのに盛大なため息をついた店主は、詫びだと言ってぶら下がっていた干し肉をひとつ紙袋に入れてくれた。

 それをありがたく受けとると、ギルベルトたちは屋敷に戻るべく市場をあとにする。


「……やったのは、おそらくだがあの女だな」


 市場の通りを出たところで、ダグラスが小さくそう漏らした。

 驚くエルザに対して、ダグラスは小さく息を吐く。


「あの女は、ワーウルフだ」

「そんなこと、わかるの?」

「ダグは鼻がいいからねー」

「恋人が死んだのは満月の夜だと言っていただろう? ワーウルフの変身は月齢に影響される。だがあいつらに、自分が人狼だという自覚はない」


 つまりは眠っているはずの時間に、無意識に変身しているということになる。


「凶暴化したオオカミのそばに肉のかたまりが無防備に寝転んでたら、そりゃ本能で襲うよねー」


 軽い口調でそう言うギルベルトに、ダグラスは短く「そういうことだ」と相づちを打った。


「だけど、彼女がワーウルフだなんて……、本当に?」

「なんなら、あの娘のあとをつけてみるか? 幸い、今夜は満月だ」

「い、いや……、別にそこまでは……」

「で? 聖水は本物?」


 挑発するように横目でダグラスを見遣るギルベルトに、彼はため息を漏らしながら小さく首を横に振る。


「あの聖水は、ニセモノだな」


 はっきりとしたダグラスの口調に、エルザは「やっぱり……」と人知れず納得する。

 たしかに本物であるならば、町娘がそう易々と手にできる代物ではない。


 ヒトの間ではヴァンパイアに対抗しうる手段として有名ではあるが、クルースニクに所属するエルザとて、本物を見たことはない。

 ヴァンパイアがふれればたちまち灰となって死んでしまうとされる『聖水』と名がついたものは、闇市などで高値で取引されることが多い。おそらくあの娘も、そういったところで非合法に手に入れたのだろう。


「わたくしたちに、聖水なんて効きませんわよ?」

「えっ?」


 アリシアの言葉に、エルザはおもわず彼女を見た。

 日傘の影で、可憐な少女がきょとんとした表情で首をかしげている。

 小瓶の中身がニセモノであることは、エルザも薄々は感づいてはいたが、アリシアの指摘はヒトの常識をたやすくくつがえしてしまったのである。まさか効かないとは思ってもみなかった。

 しかしヴァンパイア本人が「効かない」と言っているのだから、それは本当のことなのだろう。彼らがエルザに対して嘘偽りなく接しているのは承知しているし、となればアリシアの言葉は真実である。


「『聖水』っていっても、所詮はだからね。そりゃ、すごーく信心深いヒトが使ったら多少は効力があるのかもしれないけど、せいぜいグールを怯ませるくらいじゃないかな?」


 なんでもないことのように笑いながらそう言うギルベルトに、ヒトはどうあってもヴァンパイアには勝てないと言われているような気がしてならなかった。


「ほらエルザ、帰るよ」

「あぁ、うん」


 差し出されたギルベルトの手になんとなく自身の手を伸ばしながら、エルザは自分たちとは反対方向に走り去っていった女性に思いを馳せた。



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