第31話 お願いだから
弧をえがいた唇が言葉を刻むのと同時に、体を強引に引き寄せられる。
導かれるまま彼の腕の中に収まった瞬間、己の唇がやわらかいものでふさがれる。
それがギルベルトの唇であると理解する間もなく、エルザは突然のことに身を固くして反射的にまぶたを閉ざした。
「っん……、んんっ……!」
息苦しさに声が漏れる。
逃れようにも、後頭部と腰に回された腕にしっかりと体を抱き寄せられているためそれもかなわない。
酸素を求めて薄くひらいた唇のすきまから、容赦なく彼の舌が侵入してくる。生暖かい感触に貪るように口内をかき乱され、ねっとりと舌を絡め取られる。
角度を変えては執拗なまでに口内を責め立てられ、混ざりあった互いの唾液が行き場をなくして喉の奥に流れていった。
「んっ……、ふっ……」
ようやく解放された唇から、伸びた銀糸がぷつりと切れる。
酸欠でふわふわとする思考でうっすらとまぶたをひらけば、ギルベルトが泣きそうな表情で見つめていた。
「ごめん……」かすかに紡がれた声は、ひどく震えていた。
「でも、俺はエルザが好きだ。本当に好きなんだ。こんな気持ちになったのだって、エルザが初めてなんだ……」
正直言えば、ひとめぼれなんて信じていなかった。特定の誰かを愛しく思うなど、自分にはあり得ないと。
しかし初めてエルザと出逢ったあの晩、まっすぐに自分を射抜いたアメシストの瞳の輝きに、凛とした背中に、一瞬で心奪われたのだ。
「エルザは俺だけ見てればいい……。お願いだから、どこにも行かないで」
すがるように、ギルベルトはエルザの体を腕の中に閉じこめる。
壊してしまわないように遠慮がちに、しかしあふれる想いを抑えきれず力強く。
低くかすれた声色がエルザの鼓膜を揺らし、胸が締めつけられるように痛んだ。
「…………ギル、離して」
「やだ」
エルザの言葉を拒否するギルベルトは、大きな体を丸めて彼女の肩口に顔をうずめたまま。
広い背に手を回せば、彼は一瞬びくりと肩を揺らした。
彼の心は不安でいっぱいなのだ。
拒絶されるのが怖い。
大事な人を失うのが怖い。
言葉にしきれない感情を、どう伝えればいいのかわからない。
そんなギルベルトをあやすように、エルザはゆっくりと彼の胸に体を預けた。
ギルベルトとは対照的に、エルザは不思議なほどに落ち着いている。
「逃げたりしないから……。約束する」
ようやく腕の力をゆるめ、体を離してくれたギルベルトは、はたから見てもあきらかに落ちこんでいた。
うつむき加減で地面を行ったり来たりさ迷う視線には、エルザの足元しか映っていない。
「…………ごめん。怒ってる?」
沈黙が怖かった。
焦っていたとはいえ、強引に唇を奪ってしまったことを、ギルベルトはいまさらながら後悔している。
これは一発ひっぱたかれるどころの事態ではないかもしれない。
ギルベルトは黙ったままのエルザの様子をうかがおうと、おそるおそる顔を上げた。
その瞬間、自身の唇にやわかいものがふれる。
一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。
状況を把握した途端、顔じゅうに熱が集まる。
「エル、ザ……?」
反射的にエルザを見遣れば、彼女はそっぽを向いてしまっている。
そうして視線だけをこちらに寄越すと、彼女はおもむろに手の甲を差し出した。
「ギル、帰ろう? あたしたちの家に」
彼女の言葉に顔をほころばせたギルベルトは、差し出された手を優しく握り返した。
屋敷へ続く道を、二人は手をつないで歩く。
二人の間に会話はない。しかし気まずい沈黙ではなかった。
それはどこか甘酸っぱい初恋の感覚にも似ていて、それでいて長年連れ添ったような安心感にも似ている。
ゆったりとした互いの歩調が、ひどく心地よかった。
傾きかけた太陽が、木々の影を長く伸ばしていた。
「エルザ、ストップ」
ふいに遠くの草むらが、ガサガサっ、と大きく揺れた。
まっすぐこちらに近づいてくる気配に、ギルベルトはエルザを背に隠すように立ちはだかる。
おのずと辺りに緊張が走る。
二人は息をひそめ、向かってくる物音に目を細めた。
「って、ダグ!?」
颯爽と木々の合間を縫うように駆け抜けた影は、足を止めすばやく振り返った。
二人の目の前を横切っていったのは、オオカミの姿となったダグラスだった。
ギルベルトとエルザは、すぐさま彼に駆け寄る。
「どうしたの? そんなに慌てて。アリシアは?」
彼はアリシアと祭りに出かける予定だったはずだ。朝、確かに彼はそう言った。
しかし、いつもそばにいるはずのかわいらしいパートナーの姿は見当たらない。
どこか先を急いでいるような彼は、眉間にしわを寄せて表情を歪めた。
「アリシアが、帰ってこない……!!」
しぼり出すように発せられた低い声色は、焦りと不安が混ざりあっていた。
今朝、ギルベルトとエルザを見送ったあと、ダグラスは屋敷でアリシアの帰りを待っていた。昼までには戻ってくる予定だったのだ。
しかし約束の昼を過ぎ、待てども待てども、彼女は一向に屋敷に帰ってはこなかった。
早朝から彼女が出かけた場所が場所である。
完全に安全かと問われれば、誰もが否と答えるだろう。
一抹の不安を覚え、ダグラスは屋敷を飛び出してきたらしい。
「まさか、なにかあったんじゃ……!」
アリシアの行き先に、ダグラスもギルベルトもいい顔をしなかった。それは二人がそこを好いていないという理由だけではないのかもしれない。
嫌な予感におもわず身を乗り出したエルザの手が、小さく震えていた。
「おれはこのまま城に向かう」
「俺たちも行くよ。いいよね、エルザ」
ギルベルトの言葉にエルザは大きくうなづいた。
次の瞬間、三人は城に向かって走りだした。
「ダグ! アリシアのにおいは!?」
もしかしたら、アリシアの所在は城への道をそれている可能性もある。そのときは、ダグラスの鼻だけが頼りだった。
だがその矢先、先頭を切って走っていたダグラスの足が止まる。
「ダグ?」
彼は辺りを確認するように見回し、ピンと立った耳が周囲の気配を探る。
小刻みににおいを嗅ぎ分けていた鼻先が、ピタリ、と止まった。
「っアリシアの、血のにおいだっ……!」
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