第51話 お手柔らかに

 小さくひらいた出窓のすきまから吹きこんだ夜風が、長い金髪をふわりと揺らした。

 ウィンドウベンチに腰かけ、ぼんやりと夜空を眺めていたエルザは、首筋を抜けた冷たい空気に小さく身震いする。


「…………ベルンハルド、か」


 誰に聞かせるでもなく、ただ闇に向かってぽつり、とつぶやく。

 ギルベルトの話に嘘はない。

 あれはまぎれもなく、過去に起こったできごとなのだ。

 おそらくエルザの母が殺されたのと同時期のことだろう。


「どうしろってのよ……」


 母の仇であるあの男を殺すためだけに生きてきた。

 いまさら許すことなどできるはずもない。

 だがしかし、彼はアリシアの実父である。

 自分が復讐を果たしたとしても、遺された彼女はどう思うだろうか。

 自分を、恨むだろうか。

 ギルベルトもダグラスも軽蔑するだろうか。


 複雑に絡みあう感情の渦に、エルザは膝をかかえて深く息を吐いた。


「……エルザ、眠れない?」


 沈むウィンドウベンチのクッションと、うしろから包みこむぬくもり。

 背中越しに伝わる落ち着いた鼓動に、ぐるぐると渦を巻いていた心が安堵していく。

 猫のように肩口にすり寄ってくるギルベルトの、銀色の毛先が首筋をなぞってくすぐったい。


「ごめん、起こした?」

「んーん……」


 くぐもった声で返事をしながら、ギルベルトは小さなあくびを噛み殺す。

 静寂の中、互いの息づかいだけが空気を震わせる。

 遠い森の奥から、フクロウの低い鳴き声が聞こえていた。


「いつから、知ってたの? あの男が……、あたしの父親だってこと」


 エルザのつぶやきに、ギルベルトがぴくりと反応する。

 顔を上げたらしい彼は、言い出しにくそうに吐息に乗せて声を漏らした。


「あー……、バースデーパーティーの日に、本人からね」


 その返答に、エルザは「そう……」とだけ短く相づちを打つ。

 エルザとギルベルトの出会いは、あくまでも偶然によるもの。

 そのことに少なからず安堵している自分を感じて、エルザは人知れず息をついた。


「本当はね、エルザに話すかどうかギリギリまで悩んでたんだ。だけどきみを連れ帰った以上責任は持たなきゃだし、なにより黙ってても、エルザは自分で突き止めちゃいそうだしさ。そうなった場合、エルザはまた一人で行こうとするでしょ? 俺には、それが怖かったんだ」


 腹部に回されたギルベルトの腕が、けっして離さないとばかりにエルザの体を抱きしめる。

 その手がわずかに震えているのはきっと気のせいではない。

 エルザを失うことをもっとも恐れているギルベルトにとって、今回のことは相当堪えたらしい。


「……エルザ、なに考えてるの?」


 ギルベルトのやわらかな声色が、すべてを見抜いているかのようにエルザの鼓膜を揺らした。

 彼の問いかけにすぐに答えることができず、エルザはわずかに口をつぐむ。


 言葉にすべきかどうか。

 このままなにも聞かなかったことにして、黙っているほうがいいのか。

 しかし彼の腕の強さが、それを許してくれそうもない。


「……あたしは、どうすべきなのかな、と……」


 独り言のようにつぶやいた言葉は、彼の耳に届いただろうか。

 息を吸いこんだ彼の仕草に、心なしか胸が苦しくなった。

 やはり、彼は自分の行動を止めるだろうか。


 だがエルザの思いとは裏腹に、彼女の体はギルベルトと向かいあうように反転させられる。

 そして冷えきった頬を包むように、大きな手のひらが輪郭に添えられた。

 不思議そうなまなざしを向けるエルザを、ギルベルトはまっすぐに見つめていた。

 月明かりに照らされたアクアマリンが、澄んだ色合いできらめく。


「エルザの好きにしたらいいと思うよ。エルザがどの道を選んだとしても、俺はきみのそばにいるし、全力できみを守るから」


 ギルベルトの優しさに、喉の奥が引きつる。

 目頭が熱い。

 エルザはごまかすように、とっさに彼の胸元に顔をうずめた。


「っ……!」


 つん、と消毒液のにおいが鼻をついた。

 肌に当たる違和感。

 少しばかり顔を離したエルザの目の前、赤黒いものがギルベルトの肌に痛々しく線を引いていた。

 それはまぎれもなく、暴走したエルザがつけたもので。


 傷口は完全にふさがっているようだが、いかんせんダンピールに傷つけられたものだ。傷あとまではきれいに消えなかった。

 着崩したシャツの襟から覗く傷あとに、後悔と申し訳ない思いが交差する。

 エルザは彼のシャツをくしゃりと握りしめ、再度その場所にひたいを寄せた。


「ふふっ、エルザくすぐったい」


 エルザの唇が、痛々しい傷あとをいたわるようになぞっていく。

 こんなことで傷あとが消えるわけでもないことは百も承知。

 それでも、淡い願いを込めずにはいられなかった。


「……傷、残っちゃったね」


 彼に寄りかかったまま、エルザはその胸板に指先を這わせる。

 頭上でギルベルトがくすくすと笑っていた。


「……エルザ、誘ってる?」

「まさか」

「嘘。こんなにあおっといて、ちゃんと責任取ってよね」

「あたし病みあがりなんですけど?」


 覗きこんできた彼の瞳は、すでににわかに熱を帯びていた。

 これは逃げられそうにない。

 観念したように身を預ければ、待ってましたとばかりに抱きすくめられる。


「誘ってきたのはエルザだからね。俺、結構我慢してたんだから」

「ふふっ、お手柔らかにね」


 密着する互いの体に、少しだけ鼓動が早くなった。

 どちらからともなくまぶたを閉じる。

 重ねられた唇の熱を冷ますように、夜風がふわりと二人のそばを通りすぎていった。



◇◇◇◇◇



 射撃訓練場に、銃声が反響する。

 ダミーの銃弾は的確に、人型をかたどった的の頭部を貫通した。


「あいつ、来ると思うか?」


 動かない的をにらみつけたまま、アルヴァーは静かにそう言った。

 近づいてきた足音がぴたりとやむ。

 隣のレーンで、ルティスは訓練用の銃に弾を装填し、奥の的に狙いを定めた。


「来るよ」ルティスは正面を向いたまま断言する。


「きみも見ただろう? あのときのエルザの目は、死んでいなかった」


 拘束中のエルザは、生きる気力さえ失ってしまったかのようだった。

 だがヴァンパイアの話をした瞬間だ。

 彼女のうつろな瞳が、一瞬光を取り戻したのである。

 ルティスとアルヴァーはその変化を見逃してはいなかった。

 再びヴァンパイアに連れ去られたとはいえ、彼女の性格上このまま動かないはずがない。

 自分たちの知るエルザはそういう女性だ。

 今でもそうであってほしいと信じている。


「……そうだな」


 アルヴァーはルティスの横顔を見遣ると、挑発的に口角を上げた。

 再び目の前の的に銃口を向ける。

 訓練場には、何発もの銃声が響き渡っていた。



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