第5話 アクアマリン

 男は困惑したようにエルザを見た。

 まさか再び銃口を向けられることになるとは思ってもいなかったのだろう。

 自分を狙う銃口と、それを構える彼女とを交互に見つめながら、男は困ったように眉尻を下げた。照準はあきらかに自分の眉間に合わせられている。


「…………」

「…………」


 エルザはまばたきもせずに、じっと男の返答を待った。

 男が声を発するまでの時間が、いやに長く感じる。

 うっすらとひらきかけた彼の口が紡ぐ言葉によっては、指にかけた引き金を引くしかない。


――勝算はない。けど……。


 彼がヴァンパイアであった場合、逃げるための足止めくらいはしておかなくてはならない。

 グリップを握るエルザの手に力が入る。


 だが沈黙を破ったのは、男の否定でも肯定の言葉でもなかった。


 エルザの後方。暗闇に包まれた藪がガサガサと耳ざわりな音を立て、奇声が周囲にこだまする。

 エルザが危険を察知し振り向いたときにはすでに、背中からいびつな翼を生やしたグールが彼女の目の前まで迫ってきていた。

 汚れた牙をむき出しにして、グールはエルザへと手を伸ばす。鋭い爪が鼻先をかすめ、喉を締めつけたような気味の悪い鳴き声が響く。


「チッ!」

「お姉さん危ない!!」

「っ!?」


 男の放った叫び声と同時に、エルザの体は体勢を整える間もなく、彼女の意志とは無関係に引っぱられる。

 飛びかかってきたグールの攻撃を紙一重でかわし、エルザは引っぱられるままに地面に倒れこんだ。

 衝撃のわりに痛みが少ないのは、彼女の腕をつかんだ男が自分の体を下敷きにするように倒れたからだろう。どうやら危機一髪、男の咄嗟の行動に救われたらしい。

 しかし礼を言っている暇はない。エルザは男を下敷きにしたまま、すぐさま銃を構えなおすと、再度攻撃を仕掛けようと体を反転させたグールに狙いを定めた。

 奇声を発しながら翼をばたつかせた敵は、まっすぐエルザたちに向かってこようとしている。極限を迎えた空腹感に耐えきれず、グールは彼女たちを喰いたくて仕方がないのだ。


『キエェェェエエェェェッ!!』

「くっ!」


 暗闇の中、破裂音とともに銃口から一発の弾が放たれる。

 銃弾は寸分の狂いもなくグールの脳天を正確に貫き、コントロールを失った肉塊がエルザの頭上を通過していく。

 勢いよく地面にたたきつけられ、すべるようにして遠ざかっていく塊は、断末魔を上げることもなく灰と化していった。

 残されたのは、エルザの放った銀の銃弾だけ。


 周囲が再び、静寂に包まれる。

 血なまぐさい灰をさらう風の音だけが、静かに辺りを流れていった。


「っお姉さん! 大丈夫!?」


 地べたから勢いよく起き上がった男は、そのまま目の前のエルザに飛びついた。

 予想外の男の行動に反応しきれなかったエルザは、背中から地面に倒れる。咄嗟に受け身を取りはしたものの、やはり地味に痛い。


「っ、大丈夫だからそこをどけ! 重い!」


 こちとら日夜厳しい訓練を積んでいるクルースニクである。グール退治を専門としているのだから、危険は百も承知。

 それを知ってか知らずか、ようやく落ち着きを取り戻した男は心配そうにエルザの顔を覗きこんでいる。


 否、彼がおもむろに口にしたのは、心配とはほど遠いつぶやきだった。


「…………お姉さん、やっぱりいいにおいがする」

「はぁ? いいからさっさとどけ!」

「おいしそう……」


 ふわり、と頬にふれた男の冷たい指先に、エルザは背筋がぞわり、と逆立つのを感じた。

 男はエルザの上に馬乗りになったまま、まっすぐに彼女を見つめている。月明かりに照らされて、アクアマリンが妖しげに揺らめいた。

 男はわずかに見せた舌先を、三日月をえがく自身の唇に這わす。

 視線はエルザをとらえたまま、ゆっくりと。


「っ……!」


 エルザはとっさに、距離を縮める男の体を押し返そうとした。

 だが抵抗する間もなくするりとその手を取られ、焦らすように指の間をなぞられる。絡めとられた指先が、しびれたように力が入らない。


「ねぇ、食べてもいい……?」


 顔を寄せた男が、エルザの耳元でそうささやく。

 低くかすれた声色に、エルザは反射的にまぶたを固く閉ざした。


「…………」

「…………」

「…………、んん?」


 しかし身を固くしたのもつかの間、体にのしかかる重さが増しただけでそれ以上はなにも起こらない。

 おそるおそる、エルザは薄目を開けて男の姿を確認する。


「…………は?」


 あろうことか、男はエルザの上に覆い被さったまま、気持ちよさそうに寝息を立てているではないか。


「……ふざけんな。寝ぼけてんの? こいつ」


 とたんに、エルザは腹の底からどっと息を吐き出した。

 神経が図太いのか。緊張感がないだけか。

 よくわからない男の理解しがたい行動に、エルザももはやあきれるしかない。


「なにがしたかったのよ、こいつ」


 そもそもこの男は、どこのどいつなのか。

 立ち入り禁止区域にいた目的はなんなのか。

 聞かなくてはならないことが、それこそ山のようにある。

 とりあえずは任務の報告も兼ねて、いったん男を支部まで連行しなくてはならないだろう。いわゆる事情聴取というやつだ。

 正直、めんどくさいことこの上ない。


「……だっる」


 ぼんやりと白くなりはじめた東の空を眺めながら、エルザは再び大きなため息をついた。



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