第2章 他人との共同生活はある意味地獄
第15話 なにがどうして
ふわふわとしたまどろみの中、ぼんやりとした意識が静かに浮上する。
ゆっくりと、しかし確実に、手足の感覚が自分のものとして戻ってくる。
貼りつくように重たいまぶたを無理やりにこじ開ければ、視界にやわらかな光が飛びこんできた。
長いこと光の届かない暗闇にいたかのような感覚に、一瞬目がくらむ。
「…………んっ……」
数回瞬きを繰り返し、ようやく目が明るさに慣れてきたころ、エルザはゆっくりと体を起こした。
全身がひどく重たい。
少し動くだけでも億劫なほど、体は疲労を訴えていた。
――あたし、眠ってたの?
肩まできちんと掛けられていた真新しいブランケットが、するり、と膝の上にずり落ちる。
エルザは無意識に、サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばした。
真新しいグラスに注いだ水を、小さく口に含む。ひんやりとした潤いが心地いい。
ふわり、とレモンの風味が口内に広がった。
渇きを満たすように一気に水を飲み干したエルザは、あらためて辺りの様子を確認する。
しかしそこは、勝手知ったる自身の部屋でも、支部の仮眠室でも救護室でもない。
広い室内にはエルザ以外にヒトの気配はなく、辺りはシン……、と静まり返っていた。
「…………どこ? ここ……」
淡いサーモンピンクの壁紙に、ホワイトを基調とした家具。
どれも真新しい部屋のインテリアは、細部に施された金の装飾が、夕日に照らされてキラキラと輝いていた。
大きな窓を覆う繊細なレース刺繍のカーテンが、やわらかくそよ風に揺れる。窓の外から聞こえてくるのは、小鳥たちのかわいらしいさえずりだ。
ここはいったいどこなのだろうか。
どうしてこんなところで寝ていたのだろうか。
――あたし、たしか支部の地下で……。
エルザは、まだはっきりと覚醒しきっていない頭で必死に記憶をたどろうとする。
「あ! エルザ、目が覚めた?」
「っ!?」
唐突にひらいたドアの音に、エルザは反射的に顔を向けた。
ひょっこりと顔を覗かせた人物に、エルザの肩が大げさなほどに跳ねる。
とたんによみがえってくる恐怖。
心臓が、弾かれたように早鐘を打った。
「っ……!」
エルザはおもわず、自身の首筋に手を伸ばした。しかし、指先でふれたそこにはなんの違和感もない。
――どういう、こと……!?
満足に回らない思考回路を懸命に働かせる。
だがその間にも、遠慮なく部屋へと入ってきた男は手にしていたトレーをサイドテーブルに置くと、困惑するエルザの顔を覗きこんだ。
「なかなか起きないから心配したんだよ? 具合はどう? どこか調子がおかしいとことかない?」
「な、なな……!」うろたえるエルザの口から、言葉にならない声が漏れる。
「なんであんたがここにいる!?」
エルザは伸ばした指先を、びしっ、と男に突きつけてやった。
いったい誰が見間違えようか。
すらりとした長身。長めの銀髪。前髪の間から覗くアクアマリンの瞳。
襟元を着崩したワイシャツ姿で穏やかに微笑むこの男は、支部の地下牢でエルザに襲いかかってきた、ギルベルト本人に間違いなかった。
やっとの思いでエルザが声に出した言葉に、彼はきょとんとして彼女を見ている。
「『なんで』って言われても、ここ俺んちだし?」
「はっ!?」
「いや、だから、俺んち」
どうか聞き間違いであってほしい。
よりにもよってこの男の家で寝ていたなど、最悪の状況以外のなにものでもない。
しかしエルザの願いとは裏腹に、ギルベルトは再度同じ単語を口にした。
「おれ、んち……?」
「そ。俺んち」
「……は? え……、なん」「お姉さまぁぁああぁぁぁ!!」
そのときだった。
勢いよく開け放たれたドアから走りこんできた小さな物体が、そのままの勢いでエルザめがけて飛びこんでくる。
咄嗟のことにすぐさま対応できなかったエルザは、胸に飛びこんできたその物体とともに仰向けにベッドに倒れこんだ。
やわらかいクッションが背中を受け止めてくれたおかげで痛くはないが、寝起きのせいか衝撃に頭がくらくらと揺れる。
――なんだってのよ、もう……!
次から次へと目まぐるしい展開に、頭がついていかない。
正直もう勘弁してほしい。なにがどうしてこんな事態になってしまっているのだろうか。
「お目覚めになられましたのね! よかった!」
「え、っと、あの?」
「お体の具合はいかがです? わたくしもう心配で心配で!」
エルザの上に馬乗りになったまま、彼女を押し倒した少女は一気にそうまくし立てる。
ふっくらとしたやわらかな肌はビスクドールのように白く、ツインテールにしたピンク色のロングヘアが、少女の動きに合わせてふわふわと揺れた。
まだ幼い少女のグリーンガーネットの瞳が濡れているのは、気のせいではないだろう。
「ちょーっと落ち着こうか、アリシア」
少女の勢いに押されっぱなしのエルザに対して、ギルベルトは少女の小さな体を持ち上げる。
フリルのたくさんあしらわれたかわいらしい黒いドレスの裾が、ふわりと揺れた。
だが少女の可憐な姿とは対照的に、彼女は床に足をつけるなりギルベルトに食ってかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「これが落ち着いていられますか! もとはといえば、お兄さまがインタフィアレンスを使った挙げ句、味見と称してお姉さまに噛みついたのが原因でしょう!?」
「ちょっ、アリシアそれは……!!」
ギルベルトが慌てて止めようとするが、時すでに遅し。
気まずそうにエルザを見遣るギルベルトに、エルザは息を飲んで全身をこわばらせた。
「お前っ、やっぱりヴァンパイアか!!」
訳もわからずその場の空気に気圧されている場合ではない。
目の前にいるのはヴァンパイア。つまりヒトの敵である。
だが武器のない状況で彼らと殺り合う術はエルザにはなく、彼女はなんとかして逃げるべく瞬時にベッドから飛び降りようとした。
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