第40話 あいつはどこ

◇◇◇◇◇



 ぐるぐると脳が回転しているかのような錯覚を覚えた。

 ぼんやりとする頭で、なんとか状況を把握しようと試みる。

 鉛のように重たいまぶたをこじ開けて、目に飛びこんできたまぶしさにエルザは顔をしかめた。


「お姉さま? お目覚めになられましたか?」

「アリ、シア……?」


 かすむ視界のまま声のするほうに気だるげに首をひねる。

 グラスや水差しの乗ったトレーを手にしたアリシアが、ベッドのすぐそばで表情をやわらげていた。

 その瞳がうっすらと涙ぐんでいるのは、気のせいではないだろう。

 サイドテーブルにトレーを置いたアリシアは、そっと目尻をぬぐうしぐさを見せた。


「お加減はいかがです? 起き上がれそうなら、ダグにあたたかいスープを頼んできますわ」


 グラスに水を注ぐアリシアの横顔を、エルザはただぼんやりと眺めていた。


――あたし、どうしたんだっけ……?


 見慣れた天井を見上げながら、エルザは眠気を訴える意識をなんとか働かせる。

 脳内にめぐらした記憶に、エルザはハッ、と息を飲んで身を起こした。


「っ、あいつは!?」


 どこかの関節が小さく音を鳴らした。

 上半身の血圧が急に下がったせいで、目の前が一瞬暗くなる。

 くらくらと揺れる頭を支え、エルザは深く息を吐いた。


「あの、お姉さま? 申し上げにくいのですけれど、あれから三日ほど経ってまして……」

「三日……!?」

「ごめんなさい……。まさかお兄さまが……」


 言い出しづらそうにそう言ったアリシアの視線が、ふらふらと床をさ迷う。

 兄がエルザに対してインタフィアレンスを使ったことを、本当に申し訳なく思っているのだろう。

 やむを得ない状況だったとはいえ、そのせいでエルザは意識を失い、寝込むこととなってしまったのだから。


 ドレスの裾を握ってうつむくアリシアに対して、エルザもまた視線を落としたまま微動だにしない。

 長い金髪にさえぎられて、彼女がなにを考えているのか、表情から読み取るのは不可能だった。


「…………ギルベルトは、どこ?」


 ポツリ、と発せられた声色は、低く冷たい響きをしていた。


「お、姉さま……? きゃっ!?」


 勢いよくベッドから飛び出したエルザは、そのままそばにいた妹の肩をつかんだ。

 突然の痛みに顔を歪めたアリシアを気にする余裕もなく、エルザは力任せに彼女の肩を揺らす。


「あいつはどこだ! ギルベルトを出せ!」


 エルザのあまりの剣幕に、バランスを崩したアリシアがサイドテーブルにぶつかって床に座りこむ。

 振動で転がり落ちたガラス製の水差しやグラスが、落下の衝撃でけたたましい音を立てて破片を散らした。


「アリシアー、エルザ起きた? って、どうしたの?」


 ひょっこりと部屋を覗いたギルベルトは、彼女たちの状況にわずかに目を見開いた。

 エルザはまだギルベルトの存在に気がついていないようで、肩で息をしながらアリシアを見下ろしていた。

 ギルベルトは落ち着いた足取りで室内に足を踏み入れると、静かに二人に近づく。

 そうして至極冷静に、ゆっくりとエルザの名を紡いだ。

 次の瞬間、振り返ったエルザに胸ぐらをつかまれた彼は、慌てることなくその場に留まったまま。

 敵を見るようなまなざしで自分を見上げるアメシストが、まっすぐにアクアマリンに突き刺さった。


「貴様っ、なんで止めた!? あいつは! あの男は!?」

「うん、落ち着こう? エルザ」


 怒りから小刻みに震えるエルザのこぶしを包み、そっと自身の襟元から離す。

 素直に従った彼女の手を握ったまま、ギルベルトはなるべく普段どおりに声を発した。

 無理に押さえつけるような真似をすることは、今のエルザには逆効果である。まずは興奮している彼女を落ち着かせなければならない。


「うるさい! そもそもお前が止めなければよかったんだ! あの男のせいで母さんは……!」


 しかし、ギルベルトの思いとは裏腹に、彼女の怒りはおさまる様子がない。

 男との再会で当時のことが鮮明にフラッシュバックしてしまい、同時にそのときの感情もよみがえってしまったらしい。

 憎悪とも後悔とも区別のつかぬ負の感情に飲みこまれるエルザに呼応するかのように、彼女の紫色の瞳が徐々に赤みを帯びていく。


――やっばいなぁ……。


 感情に流されるまま、エルザは無意識にヴァンパイアの力を解放しようとしていた。

 このままでは良くない方向に進んでしまう。

 ギルベルトのひたいに、人知れず嫌な汗がにじんだ。


「エルザ、だめだよ。戻っておいで?」


 沈黙したままうつむいてしまったエルザの顔を、ギルベルトは穏やかな声色で覗きこむ。

 なにかに耐えるように噛みしめた下唇に、小さな牙の先端が食いこんでいた。


「……あの男、殺してやる……!!」


 彼女の目には、もはや憎しみしか映されていない。

 深い赤色のその奥で、黒い闇がぐるぐると渦を巻いている。


 もう、限界だった。


 ギルベルトは彼女の暴走を止めるため、三度みたびインタフィアレンスを行使する。

 強制的にエルザと視線を合わせようと、彼女の頬に手を伸ばしたときだった。


「邪魔、するな!!」

「っ!?」


 次の瞬間、ギルベルトの体に激痛が走った。

 腕を振り上げたエルザの指先からは、鮮血が滴り落ちていた。



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