(21)コンロの火



 当直勤務を終え、朝日の香りが漂うなか、清治は帰路につく。

 安アパートのドアを開けると、畳のにおいが迎え入れてくれた。外から差し込む光の中、ダイヤモンドダストのようにうっすらと埃が踊っている。

 テレビのスイッチを入れる。ブラウン管の中では、今シーズンの中日ドラゴンズの戦績に対して、出演者たちがああだこうだと議論していた。


「中日はAクラス。俺の人生はBクラスってか」


 やかんに水道水を注ぎながら独りごちる。コンロは三回目の試行で火が点いた。

 寒さに小さく背筋が震え、揺らめく橙色に手をかざしてみる。

 ぼんやりと温かい。

 しかし——離して少しすると、指先はすでに熱を失っていた。


「……ほれともCクラスかや」


 清治は幼いころから冷え性だった。

 末端が極度に冷たい。

 冬のしもやけは毎年発症しており、そのたびに母親の手から体温を分けてもらったり、はあっと息を吐きかけてもらったりしていた。

 しかし思えば、そのころが人生で一番症状が和らいでいた気がする。

 なにより心が温かかったからだ。


 ——小学二年生のときだった。

 あのときほど県内の不名誉な交通事情を恨んだことはなかった。

 両親が自動車事故で他界してからは、冷えは悪化の一途をたどった。


 瞬く間に独りになってしまった清治は、母方の親戚の家に引きとられた。

 しかしそこで知ったのが、母親は望まれぬ恋をしていたこと、駆け落ち同然に父と一緒になったということだった。

 そんな女の息子を歓迎する器量を、彼らは持ち合わせていなかった。言葉の端々、行動の折々に氷柱つららが仕込まれているような思いがあった。彼らには実子がいたため、なおさらそれは心に刺さった。

 他人の家での居候生活は終わらない冬だった。

 取り除けない心のおり

 拭いきれぬ疎外感。


 ——金田清治は家族がほしかった。


 とはいえ、学生であるうちは最低限の衣食住はこしらえてくれていたから、養父母にはそれなりに感謝も義理も感じていた。

 なので、高校三年生のときに「清治、警察官にならんか」と当局にコネクションを持つ養父にいわれた際は、二つ返事で了承した。

 当然だ。これ以上この家の厄介になることはできないし、彼らも自分の将来を担保する気がないことを知っていた。

 安定した収入があり自立ができて、なおかつ人に誇れる仕事だ——。

 そう、おまえのためだと懇切丁寧に説かれた言葉を、清治は素直に受けとっておくことにした。就きたい仕事ではなかったが、ほかにやりたいこともなかった。


 そうして進んだ警察学校は苦痛の連続だった。

 授業や実習の厳しさが、ではない。

 清治にはそれよりも耐えがたいものがあった。

 義務となっていた寮での共同生活だ。

 数名が同じ部屋で日々に励む連帯感は、かえって彼の孤独感を刺激しつづけた。

 ほかの生徒にはちゃんと本当の家族がいた。心の故郷があった。

 俺のおふくろはああだった。俺の親父はこうだった——。

 そういった話を聞くたびに、少しでも結束を感じる自分がひどく滑稽な存在に感じられた。贋物のおもちゃを与えられて喜ぶ子どものようだった。

 だから、そこを卒業したあとは、大半が移ることになる独身寮を選ぶことはしなかった。

 結局は全員が同じ屋根の下だ。いっそのこと完全に一人になったほうが気楽だし、集団の中の孤独を感じずに済む。


 ——そんなとろくせえところいかすか。


 不思議がる同期や、生意気な野郎だと鼻を鳴らす先輩たちにそういってやったあとに探し出したのが、この安アパート——フタバ荘の一号室だった。

 平屋の長屋造りで、他の住人はいない。

 独身寮より古臭くて家賃も高いぐらいだったが、住み心地は悪くなかった。


 そんな清治を、皆は『はみだしもん』と呼んだ。


 そして、はみだしていたのはそれだけではなかった。

 彼は警察官としてまったくもって模範的ではなかった。

 勤務中の怠けや飲食。住民との不必要な談笑。公序良俗に反する言動。細かい規則破りは数知れず。職務質問は安全確認のためではなく、自分が気に食わないと思った人間に絡みにいく、などなど——公僕にはふさわしくないパーソナリティだった。

 さらに極めつけは逮捕時の打撃使用だ。

 清治は元々、日常のストレスを紛らわすために、学生のころからよく喧嘩をしていた。

 街中で目が合ったからというだけで殴り合ったし、知人の交際相手におてつきをして殴られては殴り返す、なんてことをしていた。

 拳を握ったときだけ、その手は熱を帯び、冷え性がなくなるような気がしていた。それがただの鬱血であることも理解していた。

 喧嘩っ早い性格はなかなか矯正されなかった。

 国家権力による暴行は極力控えるべきだったが、昨晩のような捕り物の際には、『公務執行妨害』という魔法の呪文を唱えながらの一発二発の殴打は当たり前だった。

 始末書は何枚も書いたし、松尾からは「制服着ただけのチンピラだがや」と評されてきた。


 金田清治は『はみだしもん』だった。


 そして今、煎餅布団の上で横になった彼のパンツの隙間からは、局部がはみだしている。

 畳に転がったトイレットペーパーをたぐり寄せ、アダルト雑誌のページをめくる。

 次の休みはさかえ名駅めいえきあたりでナンパでもしようか、それとも学生時代からの悪友にまた合コンでも開かせようか、と考える。

 清治は、合コンで女性に職業を聞かれた際は、いつも『正義のヒーロー』と答えていた。

 意外と受けはよかった。酒が入っていればなんでもおもしろいのだろうと思った。

 そのまま盛り上がって、適当に目が合った相手を抱いた。

 行為のあと、たいていわれるのは「そういえば、正義のヒーローって結局なに?」というセリフだった。彼は毎回「ジョークに決まっとるがや」と答えていた。

 ホテルのベッドの上で、人肌に触れていた自分の手を見る。

 何も温度は残っていない。


 ——君の手、冷たすぎて無理。


 そう最中にこぼしていた女性は、隣で背を向けて横になっていた。

 先ほどまでその髪が乱れていたのを思い出す。

 コンロの火の揺らめきに似ていた。


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