(29)ここに



                  ※



 塚本優衣は母子家庭で育った。

 父親はわからない。

 物心つくころにはすでに、手を繋いでくれるのは母しかいなかった。

 父の話を聞こうとすると激昂することから、円満な別れ方ではなかったのだろう。

 母方の祖母に尋ねてみたことがある。自分の父はどんな人だったのか、と。

 祖母は優しく首を横に振るだけだった。そしてそうしたきり、まもなく急逝してしまった。

 酒が入ると、母はよく父の愚痴をこぼしていた。


 ——あの男はろくでもない。どうしようもないクズだった。


 横にいると、優衣の目を指差してこういってくるのだ。


 ——あんたは妙なものを受け継いだ。その目がすべて悪い。心を狂わせる悪魔みたいな目だ。そのまなざしのせいで、あの男にどれほど苦労させられたか。


 そういうときの母は恐かった。

 とはいえ、ふだんは優しかったから好きだった。

 なんとか酒を飲まさないように誘導したり、晩酌は早めに介抱して寝かせていた。



 そんな母が徐々に変わりはじめたのは、優衣が小学生の高学年になったころからだ。

 母には恋人ができたみたいだった。

 娘に手がかからなくなったのが契機だろうか。

 最初は気をつかって電話を外でしたり、学校行事などの際にはデートに断りを入れてくれていた。

 だが、それを継続するのも億劫になったらしく、優衣を放置して恋を楽しむようになった。それどころか、ときおり使い道のない家財道具を見るような目をしてくるようになった。比例して会話も減っていった。



 親子関係のひずみが明確な亀裂になったのは、中学二年生のとき。

 優衣がアパートに帰宅すると、玄関ドアの向こう側から声が聞こえてきた。それが母のよがり狂う嬌声だと気づくのに時間はかからなかった。聞いたことのない獣の声だった。

 ちょうどそのころ、クラスで一番遅くに初潮が訪れ、性に関する諸々に思い悩む時期に遭遇したそれは、彼女に強い嫌悪感を抱かせた。

 優衣は母にいった。こんなことやめてほしい、と。

 母は激昂した。

 父の話をしたときとそっくりの反応だったのは、成長した娘の目がますます生き写しのごとく彼に似てきたからかもしれなかった。かつて愛し合った男と同じ目でいうのだから、たまったものではなかっただろう。

 抗議されてかえって、母の遠慮はさらになくなっていった。

 相手の男性が塚本家に通う回数は増えていった。しだいに入り浸るようになると、優衣の居場所はどんどん失われていった。自室の襖一枚を隔てて、男女の行為に及ばれることもあった。その自室も男性の私物が勝手に置かれるようになっていった。



 母の恋人の名前は神保じんぼといった。

 優衣は神保が嫌いだった。

 母を惑わす魔物のように思えたし、それまでも何度か会わせられたことはあったのだが、高校生になったあたりから自分を見る視線に色がつきはじめたからだ。

 情欲の極彩色。

 それは丸みを帯びていくからだにまとわりついた。着替えの最中に急に自室に入ってこられたときは、さすがに恐怖を覚えた。物をとりに入ったら起きたハプニングだと釈明されたが、そうとは思えなかった。

 神保の優衣に対する視線に、母は気づいていたはずだ。

 母という恋人がいながら、その娘にも食指を動かしている——。

 交際するに値しない男だと優衣は訴えた。

 絶対に別れたほうがいい。

 そういい放った言葉は、途中で切れてしまった。

 頬をぶたれたからだ。

 優衣は母の顔を見て、恋人を罵られたのが理由でないことに気がついた。


「色目使ったんか。その【悪魔の目】で」


 母は嫉妬していた。

 優衣に。

 もはや娘に対する視線ではなくなっていた。



 自宅の鍵が入らなくなったのは、それから数か月後のことだ。

 家に入れない——鍵が変形してしまった? 部屋を間違えた? 

 どちらも違っていた。

 高校に通っているあいだに、鍵を交換されていた。

 新しい鍵はもらえるはずもなかった。

 玄関を必死に叩いて声を上げつづけて、ようやく開いたドアにはチェーンロックがかかっていた。母はその隙間から見下ろしてきてこういった。


「これでしばらく出とって。邪魔じゃんね」


 皺の寄った千円札一枚が足元に落とされた。

 優衣は何もいえなかった。風に飛ばされたそれを追いかけ、這いつくばりながらつかまえて振り返ると、塚本家のドアが閉まるところだった。叩きつけるような施錠の音は、今でも耳に残っている。



 理不尽に家から閉め出され、根無し草になってしまった優衣は、なんとか友人の家を渡り歩いて高校へと通った。

 掃除や皿洗いを手伝って住人の機嫌をとりつづけようとした。

 しかし、いずれ限界がきてしまう。


「親がそろそろやめさせんかてうるさいんだわ」


 しかたなさげに断る友人の顔には、辟易の二文字が書いてあった。

 一人が拒絶すると二人三人と続出した。それとともに浮浪者の臭いがするなどと陰口がささやかれはじめ、優衣は高校にいかなくなった。彼女たちと顔を合わせられなかった。

 とうとう夜を明かす場所すら失ってしまった。

 廃屋に潜り込んだり、橋の下でうずくまったりして眠ろうとした。

 眠ることはできなかった。

 公衆トイレの個室が鍵をかけられて意外と安全だと気づいたのは、夜中にホームレスに追いかけられたときだった。

 そんな不安定な中でも、塚本家に戻ることはやめなかった。

 母を説得するためだ。

 いつか自然と間違いに気づいて、優しい彼女に戻ってくれることを諦めきれなかった。

 しかし、何を訴えても「金をせびりにきたんか」としか返されなかった。髪に脂を浮かせて憔悴しきった娘を見ても、千円札一枚を落とすだけだった。


 そして、その行為もしなくなる。


 金田清治と出会う前。


 最後に千円札が落とされたのは二週間前のことだった。



                ※



「……おまえが少年院に入りたがっとった理由が、わかった気がする」


 これまでの話を聞いていた清治は、優衣に視線を上げた。絆創膏やガーゼという外から見える以上に傷だらけの心を見ようとした。眉間が潰れそうだった。


「限界だったんだな。家に帰りてえ気持ちは嘘じゃねえ。けど同じくれえ、どこでもええもんで逃げ込める場所が、眠りにつける場所がほしかったんだな。でも、保護施設にゃあ駆け込みたくなかった。ツレにも先公にも、誰にもいえんかった。そうすりゃあ母親が悪者になるもんで」

「……ほうだね。かもしれん。あたしもようわからん」


 優衣はぼんやりとちゃぶ台を見ながらいう。


「けどよお、おまえが悪者になる必要はどこにもねえがや」


 清治はちゃぶ台の向こうへと手を伸ばして、優衣の灰色がかった黒髪に触れた。ぐいぐいと押しつけるように撫でる。


「よう頑張ったな、優衣。しょんべんくせえ娘なんていってすまんかった。おまえは誰よりもつええ女だが」

「ほうかやあ……。ほんとにようわからんじゃんね」


 優衣の声が揺れはじめた。

 何が正解で、何が間違いか。どこにいこうとしていたのか。

 容赦のない地球の自転に背中を押されながら、少女はさまようしかなかった。


「ええ。今は俺がわかっとる。おまえがわからんでも。それじゃいかんか」

「いかんくないけどぉ。いかんくないけどぉ……」


 声の揺れが波に変わる。

 畳にぽたぽたと雫が落ちていった。

 清治は小刻みに震える肩を見る。

 これまで何度涙を流したことだろう。

 どこで、どれほど、どんなに辛い涙を——。

 すべては想像の域を出なかった。

 だから、涙を拭うことはしなかった。

 これはきっと彼女だけの涙だ。

 それがひとまず枯れるまでは見守りつづけてやろう。

 そう思って、心が絞り出されていく様から目を離さずにいた。






 優衣が落ち着くころに、清治は立ち上がってスーパーの袋を漁った。中からメロンパンを取り出して封を開け、彼女に差し出す。


「ほれ。食後のデザート。よう泣いたあとは甘いもん食うのが一番だがや」


 見上げてくる目は真っ赤だった。しかし、瞳を包む潤みは透き通って見えた。

 優衣は両手を伸ばしてきていった。


「ありがと。好きなんだわ」

「ほうか。ほいじゃまた買ってきたらないかんな」

「また……」


 優衣は口に運びかけたメロンパンを下ろした。


「また、食べさしてくれるん?」


 期待と不安の入り混じった表情。

 それを見て、清治はわけもなく明日もこの部屋に優衣がいると考えていた自分に気がついた。一晩の寝床を貸しただけに過ぎないのに、当たり前のようにそう思っていた。当直で疲れて頭が鈍っているらしい。

「あ、いや」とうつむいて眉を触る。とりあえずは尋ねてみることにした。


「優衣はこれからどうすんだ。母親をどうにかしんと家に戻りようがねえだろ。説得は続けるんか」

「……うん。続ける」

「諦めきれんのだな」

「うん。たった一人のお母さんだよ」


 優衣の目には意志があった。


「俺が説教かますてのは、いかんのだろうな」

「うん。あたしがやらな意味ないじゃんね」

「ほうか」


 清治は台所にむかって腰を上げ、つづける。


「けどよお、夜の寝床はどうすんだ。野宿なんぞ危ねえうえに、名古屋の冬はこっからどんどんさぶなる。下手こきゃあ凍死してまうかもしれん」


 やかんから湯呑に茶を注ぐ。ちらりと振り返ると、優衣はこちらを見ながら口をまごつかせていた。年上のくせにずいぶんずるいことをしているな、と自分に嫌気が差す。

 けれど——彼女の口から聞きたかった。

 今までこんなふうに誰かの言葉を求めたことはなかった。


「俺はここまでいった。おまえはどうしてえ」

「どうて……でも……」


 そこまでいってから、優衣ははっと口を止めた。


「いったがや」


 清治はそんな彼女の前に戻り、ちゃぶ台に茶を置いてやる。


「してえこと。したくねえこと。小難しいこと考えんで——」

「——ちゃっちゃといえ」


 優衣はほほ笑んで引き継いだ。


「いったがね」


 そして、小さく息を整えてからいってきた。


「清治。あたしをここにおらして」

「優衣。しばらくここにおりゃええ」


 清治は用意していた答えを返した。

 また、指先がじわりと熱を帯びた気がした。


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