(17)帰り道
その日の夜。
退勤した飯島は、ふだんどおり最寄り駅から電車に乗った。
だが、その横にはふだんとは違う存在が立っていた。
黒瀬楯だ。
彼女は鼻歌を口ずさんでいる。
そのメロディには聞き覚えがあった。
「懐かしい歌だ。hitomiの『LOVE2000』だろ。いい曲だよな」
「んー? よくわかりましたね。メッチャ好きなんですよ、この曲」
「世代じゃないだろ。どこで知ったんだ?」
「昔に母が教えてくれたんです。私の世代だからって」
「ん? いまいちわからないな。曲が発表されたのって……あっ」
「忘れたんですか? 私、二〇〇〇年生まれですよ?」
「くははっ。そりゃたしかに世代だ」
「
つられて笑う楯を見つつ、飯島はいった。
「しかしまあ、まさかおまえと連れだって帰宅することになるとはな——」
カネダセイジを蔡に預けたあと、飯島は帰宅後に彼女に事情を尋ねようと考えていた。
そんなおりに、楯がこう持ちかけてきた。
——主任の部屋についていってもいいですか? 蔡さんから話を聞くんですよね? 私だって部外者じゃないんだし、資格は十分にあると思いますけど?
変な真似をするなといったばかりだろう、と拒否したかった。
だが、その主張は間違っていないし、むしろユイという名前で泣きつかれた彼女のほうこそ、知る権利を強く持ちえるのかもしれないと思った。
意外と真剣な表情も手伝って、押し返すことができなかった。
その結果が今というわけである。
「なんで蔡さんはカネダさんを迎えにきたんですかねー」
楯がいった。
そのとき、急に車両が揺れた。
飯島は吊革を持っていたので平気だったが、そうでない彼女はバランスを崩す。
とっさに手で支えると、飯島の胸に身を寄せるかたちになった。
くしくも昼間と似た格好だ。
「大丈夫か? 黒瀬」
飯島が尋ねると、楯は姿勢を直して「主任」と指を突き立ててきた。
「知ってますか? これ、姉がゲームしてるときにいってたんですけど。同じ攻撃技は繰り返して使うと効果が薄れるらしいんです。だから、手を変え品を変え攻めないとダメなんですって」
「なんだ、急に。関係あるのか」
「ありまくりですよ」
「さっぱりだ」
「さっぱりなうちはダメなままですね」
本当に意味がわからなかった。
釈然としないものを、飯島は周囲を見やることでごまかす。
車両内は男性客が多かった。皆黙ってスマートフォンをいじっている。
ところがその実、ちらちらと楯のほうを見ているのを飯島は感じていた。今のやりとりだけが原因ではない。それより前からだ。
楯は目立つ女子だった。
長身もさることながら、その容姿が視線を
羽虫のように顔や胸、腰にたかる視線を、自分がわかって彼女がわからないはずがないと思った。
しかし、彼女の表情に意に介す様子はまったく見られなかった。
ただ瞳を向ける相手は飯島のみだった。
「……どうした」
あまりにもまっすぐな瞳なので聞いてしまう。
「いえ? なんか機嫌悪いのかなって思って」
そんなつもりはなかった。否定しようと思ったが、そのまえに続けていわれた。
「女の子といるときはよそ見しないほうがいいですよ。ダメな主任にアドバイス」
嘲笑われているにもかかわらず、なぜかいい返す気持ちにはならなかった。そうしてはいけない気すらして、飯島は降車駅まで彼女の言葉に従うことにした。
駅から飯島のアパートまでの道中にはコンビニがあった。
楯が飲み物を買いたいといったので、一緒に入店することにする。
ついでに食料を買い足しておくかと思い、飯島は買い物かごに商品を適当に放り込んでいく。
飲料コーナーを覗くと、楯がしゃがんでアルコール類を物色していた。
「おい。飲み物ってそういう意味か? 遊びにくるわけじゃないだろう」
飯島は棚のガラス戸を手で押さえる。
楯は顔を上げてきてへらへらと笑った。
「ヤダな。新しいのチェックしてただけですよ」
「用がないならもういくぞ」
「待って待って」
慌てて紅茶のペットボトルを手にとる彼女を尻目に、飯島はレジで会計を済ませる。
そのとき、視界の端に人気の週刊少年誌を立ち読みしている少年が映った。
自分も中高生のころは同じことをしていたかな、と思いながら夜空の下に出る。
——ふと後ろを見ると、楯が同じように少年のほうへ顔を向けていた。
店内からの逆光で、表情は陰になりわからない。
「黒瀬?」と声をかけると、彼女は小走りで追いついてくる。
「もう。待ってっていったのに」
「あの少年がどうかしたのか? 知り合いに似ていたとか」
「あー、そういうワケじゃないんですけど」
どこか歯切れの悪い返事だった。すぐに楯はつづけた。
「てゆーか、主任は何買ったんですか。見せてくださいよ」
「あ、おい」
楯はレジ袋の片方の持ち手を奪ってきたかと思えば、一つの袋を二人でぶら下げるかたちにする。そして、オープンになった中身を見てあきれた声を出した。
「なんですかこのセレクト。独り暮らしのアラサー男かっつーの」
「まさにそのとおりだろ」
「インスタントばっかだし。カット野菜で健康気づかってるフリしてんの草だし」
「悪かったな。でもサプリメントは飲んでいるし、ガテマラの弁当は栄養バランスがいいから大丈夫だ」
「お昼の一食ぐらいでなにドヤってんですか」
楯は不機嫌そうにつづけた。
「このままじゃ主任、どっかでコロッといっちゃいますよ」
「葬式にはおまえたちきてくれるかな」
飯島が冗談めかして返すと、彼女は間髪入れずにいいきった。
「絶対きますよ。それで、みんな死ぬほど泣くと思います。夏菜子先輩も麻里さんも立花部長もみんな。だから、そうならないようにしてください」
声のトーンはいつもの雑談と同じだったが、それはそう努めているだけのような気もした。
「……そうか」
「あと、主任って社内のDIYとか
「そっちがメインの理由でいっているんじゃないだろうな」
そう笑った飯島は、夜道を楯と並んで歩いていく。
アスファルトには冷気が染みはじめており、秋が深まっているのを感じる。一人での帰り道ならば、この季節特有の感傷が首をもたげただろう。
だが、今はそうならなかった。
その理由は、結局アパートにつくまで袋の片側を持ったままだった。
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