(20)2000:その目に手当て



 朝。

 当直勤務を終えた清治は、帰り道でスーパーに寄ることにした。

 開店直後の店内は人もまばらだ。

 うろついたすえにレジ台に置いた買い物かごの中には、ふだんなら買わないような量の食材と、めったに食べないメロンパン、常備なんてしたことのない救急キットが入っていた。一人の人間を思い浮かべるだけで、レシートの長さはここまで変わるらしい。

 スーパーの袋をぶらつかせて歩きながら考える。

 塚本優衣は部屋にいるだろうか。警告してきたとおりに、金品を奪っていずこかへ消えてしまったのか。そもそもあの案内図でたどり着けたのか。そして、眠ることはできたのか。

 フタバ荘に到着して、様々な考えは霧散した。すべては一号室の扉を開ければわかることだ。

 ドアノブに手をかけて捻る。回った。ゆっくりと開いて室内に入る。

 畳のにおい。差し込む光と踊る埃のダイヤモンドダスト。

 お世辞にもきれいとはいえない部屋。




 そこに塚本優衣がいた。




「おるがや」


 思わず口に出ていた。

 清治の毛布にくるまって、優衣は壁際で膝を抱えていた。目元の青みが薄れている感じがする。どうやら眠れたらしい。

 彼女は淡白なまなざしでいった。


「……おったらいかんかった?」

「たあけ。おらんかったらこいつらどうすんだ。おまえのために買ってきたんだがあ」


 清治は袋を持ち上げてみせる。


「……おるかどうかもわからんのに?」

「おう。無駄にならんでよかったわ。博打に勝つんは久々だがや」


 うははは、と笑うが優衣は笑わなかった。かわりに少し柔らかな顔をした。

 清治はふいにつぶやいていた。


「そんな顔もできるんか」

「どんな顔」

「にらみつける以外の顔」


 そっぽを向いて、ため息まじりに「失礼なあんちゃん」という優衣。当のにらみつける顔はしてこない。昨晩の彼女ならそうしていたはずだった。

 その横顔にいまだに砂がついているのを発見して、清治はいった。


「なにい。おまえ、袋にされたまんまだがん。先にシャワー浴びてこやあ。出たらケガの手当したるで」


 清治の部屋には風呂場とトイレがついていた。この安アパートでも快適に暮らせていたのは、そういう部分も大きかった。

 優衣は膝を抱え直してつぶやく。


「そんなん、さすがにできんて」

「家主がええいうとるんだで入りゃあええがあ」

「……ほんとにええの?」

「ええて。何度もいわすな」


 清治は適当なタオルを引っぱり出して優衣に放る。

 彼女はそれを見つめたあと、立ち上がった。


「わかった。借りる」

「おう……って、おい。待ちゃあ」


 風呂場へ歩いていく姿を制止する。毛布をいまだにマントがごとく羽織っていたからだ。


「おまえどこまで俺の毛布持っていきよるんだ。気に入ったんか」

「……む」


 いわれて気づいたというふうに脱ぐと、優衣は顔めがけて投げつけてきた。

 清治ははたき落として「なにすんだ」ともう一度見る。

 彼女はなぜか機嫌を損ねていた。


「たーけ。臭くて全然眠れんかったわ」


 そういい捨てたあとは、脱衣所にこもってしまう。

「なんだあの不良娘」とぶつくさいいつつも、清治は毛布に鼻を近づけてみる。おかしな感じはしないが、ただ、においというのは自分で気がつかないものだ。何もしないのも嫌な気がして、とりあえず裏庭の物干し竿にかけておくことにした。

 それからは優衣が出てくるのを待っているあいだ、やかんで湯を沸かしたり救急キットの用意をしたりして過ごした。それでも時間が余ったので寝転がっていると、安物のドライヤーの音が聞こえはじめる。

 少しして優衣が出てきた。野良猫が洗われてさっぱりした後みたいだ。

 彼女の跳ねた髪を見て、清治はコームでも持っておけばよかったと思った。うねりの強い髪質ゆえに、こうとしても歯が立たないので不要だったのだ。

 彼は身を起こし、畳を叩いていった。


「きれいになったな。ほれ、ここに座りゃあ。やっとこさ手当できるわ。昨日はやったろう思ったら、とんでもねえことしよるもんでな」


 冗談のつもりだったが、優衣は表情を曇らせてしまった。やってしまった、と取り繕うセリフを探すうちに、先に彼女がいってきた。


「昨日は、ごめん」


 うつむきがちに言葉をたぐり寄せる。


「あたしがヤケになったもんで。あんちゃんは仕事しとっただけなのに。もしかしたら、本当に撃って。ほいで。死んじゃっとったかもしれん。だで、本当に……」

「なぁにとろくせえこといっとんだ。俺は拳銃を回収できて、おまえは休むことができた。それでええがや。結果オーライだろ」


 さえぎるようにいって、清治はあぐらの上に頬杖をついてつづけた。


「あとよお、俺にゃあおまえが撃たんことがわかっとった。信じる信じないじゃあねえ。ハナから完全完璧にわかっとったがや」

「……ほうなん?」

「おう。だでこっちこやあて」


 仕切り直してもう一度呼ぶと、優衣は畳の上にぺたん座りをした。自分でやるという彼女に対して「手当は人にやってもらうんだで手当っつうんだが」と諭し、清治はガーゼや絆創膏を当てていく。

 最後に顔に移った。

 塚本優衣。

 陽の光の中であらためて見てみると、整った顔立ちをしている。


 特に目が尋常ではない——。


 流線の造形美。

 目頭から目じりへと、神様が絵筆で描いたかのようだ。

 優衣が持つ大きく切れ長の目には、清治が今まで出会ってきた女性たちからは受けたことのない、妖しく強烈な印象があった。可愛さと美しさの境界線上で起きた奇跡といえばいいのだろうか——気づけば、指先でその目の輪郭をなぞっていた。

 手をはたかられることはなかった。疑問符が瞳の中にあるだけだった。


「なにい」

「……いや、傷があるんかと思ったけどなかったわ」


 そうごまかすと、優衣は当てられた手に目を流しながらいった。


「あんちゃんの手はつべたいね」

「冷え性だがや。昔っからてんで治らん。我慢しやあ」

「しとらんよ。ひんやりして気持ちええわ」


 ——君の手、冷たすぎて嫌。


 いつかの誰かの言葉が清治の心をよぎった。

 それは塚本優衣の体温だろうか。じわあ、と指に熱が染み渡っていく気がした。


「あんちゃん?」


 優衣に呼ばれ、清治ははっとした。いまだかつてない感覚に内心驚きながらも、絆創膏に手を伸ばす。彼女の口の端が切れていることは知っていたので、そこに貼ってやった。

 見たところほかに外傷はなさそうだった。清治は救急キットを片付けはじめる。


「おっしゃ。これで終いだがや」

「……ありがと」

「ミスターマリック顔負けのハンドパワーも注入しといたで、まあじき治るわ」

「ほうだね……」


 優衣は少し押し黙ったあとにつぶやいた。


「ね、あんちゃん」

「なにい」

「あたしどうしたらええの」

「どうて。なんの話だ」

「こんなんされたことないよ。布団も風呂も。よう知らんあんちゃんに手当までしてもらって、なんも返せるもん持っとらんじゃんね」


 どうやら優衣なりに恩を感じているらしい。

 しかし、そう訴えてくる感情は大きすぎる気がした。

 これまでの反抗の揺り戻しなのかもしれない。今このとき、まるで命の恩人を見るような目は危うさすら感じるほどにせつだった。


「ほんなもん気にしんでええがや」


 清治が頭を掻くと、優衣はぐいっと身を乗り出した。


「いかん。ね、どうしたらええ? なんかないの」

「そんなに返したいんか」

「ほりゃ返したいよ」

「どうしてもかや」

「なにい。遠慮しんでええよ」

「しゃあねえな。ちいと待っとりゃあ」


 清治は立ち上がって、隅に積まれた雑誌の山から一冊を抜き出した。パラパラとめくって目に留まったページを開いたまま、彼女の膝元に放る。

 それはアダルト雑誌だった。

 あられもない肌の色に、優衣の瞳がきゅうと強張るのがわかった。


「とりあえず着とるもん全部脱げ。ほんでそこに載っとるふうにしろ」


 それは、裸の女性が男性器を口で慰めている写真だった。


「あ、へ?」

「何ぼさっとしとんだ。経験ねえわけじゃねえだろが。文無しの女が男に泊めてもらって返すもんなんてそんぐれえしかねえがや」


 少しして、優衣はぽつりとこぼした。


「……やっぱり、変態だがね」

「スケベが嫌いな男はおらんだろ。なんのためについとる思っとんだ」

 

 優衣は口をつぐむ。

 しかし——ゆっくりとブレザーを脱ぎ落とした。ブラウス一枚になると、細い肩のラインが露わになる。震える指先がボタンにかかった。外せば下着が晒されるだろう。

 清治は見つめた。

 何一つ覚悟のできていない顔を見た。

 眉間がひくついた。


「クソたあけが」


 しゃがんで乱暴に優衣の手をとる。

 無性に腹が立っていた。

 またぞろ試すような真似をしてしまう自分に対して——そしてそれよりも、こんなふざけた要求をとうてい受け入れられないくせに、馬鹿みたいに隷従しようとする彼女に怒れてしかたがなかった。


「嫌なら脱ぐな。でぇらむかつくがや」

「でもっ……あんちゃんが脱げて」

「いったな」

「だもんであたしは」

「だもんで嫌なら脱ぐないうとるが」


 支離滅裂な言いぐさだ。わかっている。だが、いっきにまくし立てる。


「ほりゃあスケベが嫌いな男はおらん。俺もこんな雑誌ようけ持っとる。好きだ。けどよお、おまえのその顔はでらクソ嫌いだがあ」


 剣幕に押されたのだろう。何も悪くないのに優衣は「ごめん」と目を伏せてしまった。


「謝るな。俺もたあけだもんで、うまくいえん。口が悪なるのはいかんな。すまん」


 かぶりを振ってから清治はつづける。


「でもな……してえこと、したくねえこと、今からおまえは小難しいこと考えんでちゃっちゃといえ。じゃじゃ馬ぐれえでちょうどええんだ。ええな。今からだ。これ以上とろくせえ真似しんでええでな。いったぞ。わかったな」

 

 突き出された人差し指を見て、優衣は「ん」と返事する。

 清治はにやっと笑い、両膝を叩いて立ち上がった。


「よっしゃ。ええ返事聞けたわ。ほいじゃ、ちゃっちゃと服脱げ」


 舌の根の乾かぬうちの発言に声が出た。


「にゃあ? やに決まっとるわっ」

「うははは。けどよお、一張羅がくたくたでかわいそうだがや。新品同様とはいかんが、小綺麗にゃしたらなかんだろ」


 かごの中にブレザーを入れながら笑う清治を見て、優衣は思い至って聞いてくる。


「洗濯するん? 制服」

「なにい。嫌か」

「ほらうれしいけど……洗っとるあいだ、あたし何着とりゃええの?」

「適当に俺の着とりゃあ。きれいなやつあるだろ」


 顎をしゃくってみせる。中途半端に畳まれたスウェットのセットアップがあった。


「……ま、ええよ」

「俺は出て洗濯のまわししとるで、そのあいだに着替えときゃあ」

 

 外の玄関脇に洗濯機は置いてあった。いたずらの被害に遭いやすい置き場所のため『いたずら発見しだい即逮捕』と張り紙してある代物だ。


「ほんでそのあと飯にしよまい」


 そこまでいってから、ふと思いついて清治は振り返った。


「そういやあ、スケベよかしてもらいてえことあったわ。おまえにもできること」

「なにい」

「一人で暮らしとると、たまに他人の手料理が食いたくなるときがあってよお。飯作ってくれんか。そいつでチャラにしたるわ」

「作れん」


 即答だった。


「あたし、包丁もろくに触れんじゃんね」

「なんじゃほりゃ」


 年頃の娘なら親から多少は料理を教えてもらっているはずだろう、といいかけたが、優衣の家庭環境がふつうではないらしいことを清治は思い出した。


「まあええわ。俺が作ったる。手伝いぐれえはできるかや」

「うん。任しゃあ」


 優衣はまた少し柔らかな顔をした。





 それからは、清治が優衣にレクチャーするかたちで料理を作った。包丁や火を扱うのは見学にとどめさせて、彼女には食材を洗わせたりした。

 貸したスウェットはやはり優衣には大きすぎたようで、着膨れどころか着ぐるみみたいになっていた。それを見て「ミシュランマンみてえだがや」と茶化すと怒った。

 元気が出るものを食べさせてやりたかったので、作ったのは肉ばかりの野菜炒めだった。

 米を炊き、みそ汁も椀によそう。生まれも育ちも名古屋なら、もちろん赤だしだ。「赤味噌以外はたあけが飲むもんだ」と清治が断言すると、優衣は「よその人に怒られるがね」と笑っていた。

 時間は昼前になっていた。ちゃぶ台をはさんで向かい合って食べる。

 清治は肉とキャベツを口に放り込んだ。少々濃いが上出来だ。


「どうだ。金田シェフの味つけはうまいか」

「うん。うみゃあ」


 優衣は小さな口を動かしていう。


「こんなあったかいごはん食べたの、いつぶりかわからん。ずっとコンビニのパンやらおにぎりやらだったもんでさ」

「……ほうか」


 しばしば垣間見える優衣の背景。

 塚本家の薄暗い影に、清治はかける言葉をすぐに見つけられない。

 何か沈黙を打ち消したくて、ブラウン管テレビの電源をつけた。すぐに情報バラエティー番組の笑い声が聞こえはじめるも、「テレビ見るのも久しぶりだわ」といわれて数秒ももたずに切る。何をしているんだといいたげな彼女にむかって、真剣な声で告げた。


「優衣。腹が膨れたあとでええ。おまえのことを教えてくれんか」


 名前を呼ばれたことに驚いたのか、あらためて事情説明を求められてどきっとしたのか、優衣は目を丸くしたあとにいった。


「それは、お仕事?」

「俺は非番の日に働くほど真面目じゃねえがや」

「ほいじゃあ、あんちゃんが聞きたいだけ?」


 清治が頷くと、優衣はかすかに唇を緩めた。

 切なげな形だった。


「うん。ええよ」



                  ※



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カリヨンの鐘 - Sounds of the Bell - 池戸葉若 @furugisky

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