(27)その目に手当て ①
翌朝。
当直勤務を終えた清治は、帰り道でスーパーに寄ることにした。
開店直後の店内は人もまばらだ。
うろついたすえにレジ台に置いた買い物かごの中には、ふだんなら買わないような量の食材と、めったに食べないメロンパン、常備なんてしたことのない救急キットが入っていた。一人の人間を思い浮かべるだけで、レシートの長さはここまで変わるらしい。
スーパーの袋をぶらつかせて歩きながら考える。
塚本優衣は部屋にいるだろうか。警告してきたとおりに、金品を奪っていずこかへ消えてしまったのか。そもそもあの案内図でたどり着けたのか。そして、眠ることはできたのか。
フタバ荘に到着して、様々な考えは霧散した。すべては一号室の扉を開ければわかることだ。
ドアノブに手をかけて捻る。回った。ゆっくりと開いて室内に入る。
畳のにおい。差し込む光と踊る埃のダイヤモンドダスト。
お世辞にもきれいとはいえない部屋。
そこに塚本優衣がいた。
「おるがや」
思わず口に出ていた。
清治の毛布にくるまって、優衣は壁際で膝を抱えていた。目元の青みが薄れている感じがする。どうやら眠れたらしい。
彼女は淡白なまなざしでいった。
「……おったらいかんかった?」
「たあけ。おらんかったらこいつらどうすんだ。おまえのために買ってきたんだがあ」
清治は袋を持ち上げてみせる。
「……おるかどうかもわからんのに?」
「おう。無駄にならんでよかったわ。博打に勝つんは久々だがや」
うははは、と笑うが優衣は笑わなかった。かわりに少し柔らかな顔をした。
清治はふいにつぶやいていた。
「そんな顔もできるんか」
「どんな顔」
「にらみつける以外の顔」
そっぽを向いて、ため息まじりに「失礼なあんちゃん」という優衣。当のにらみつける顔はしてこない。昨晩の彼女ならそうしていたはずだった。
その横顔にいまだに砂がついているのを発見して、清治はいった。
「なにい。おまえ、袋にされたまんまだがん。先にシャワー浴びてこやあ。出たらケガの手当したるで」
清治の部屋には風呂場とトイレがついていた。この安アパートでも快適に暮らせていたのは、そういう部分も大きかった。
優衣は膝を抱え直してつぶやく。
「そんなん、さすがにできんて」
「家主がええいうとるんだで入りゃあええがあ」
「……ほんとにええの?」
「ええて。何度もいわすな」
清治は適当なタオルを引っぱり出して優衣に放る。
彼女はそれを見つめたあと、立ち上がった。
「わかった。借りる」
「おう……って、おい。待ちゃあ」
風呂場へ歩いていく姿を制止する。毛布をいまだにマントがごとく羽織っていたからだ。
「おまえどこまで俺の毛布持っていきよるんだ。気に入ったんか」
「……む」
いわれて気づいたというふうに脱ぐと、優衣は顔めがけて投げつけてきた。
清治ははたき落として「なにすんだ」ともう一度見る。
彼女はなぜか機嫌を損ねていた。
「たーけ。臭くて全然眠れんかったわ」
そういい捨てたあとは、脱衣所にこもってしまう。
「なんだあの不良娘」とぶつくさいいつつも、清治は毛布に鼻を近づけてみる。おかしな感じはしないが、ただ、においというのは自分で気がつかないものだ。何もしないのも嫌な気がして、とりあえず裏庭の物干し竿にかけておくことにした。
それからは優衣が出てくるのを待っているあいだ、やかんで湯を沸かしたり救急キットの用意をしたりして過ごした。それでも時間が余ったので寝転がっていると、安物のドライヤーの音が聞こえはじめる。
少しして優衣が出てきた。野良猫が洗われたあとみたいだ。
彼女の跳ねた髪を見て、清治はコームでも持っておけばよかったと思った。うねりの強い髪質ゆえに、
彼は身を起こし、畳を叩いていった。
「きれいになったな。ほれ、ここに座りゃあ。やっとこさ手当できるわ。昨日はやったろう思ったら、とんでもねえことしよるもんでな」
冗談のつもりだったが、優衣は表情を曇らせてしまった。やってしまった、と取り繕うセリフを探すうちに、先に彼女がいってきた。
「昨日は、ごめん」
うつむきがちに言葉をたぐり寄せる。
「あたしがヤケになったもんで。あんちゃんは仕事しとっただけなのに。もしかしたら、本当に撃って。ほいで。死んじゃっとったかもしれん。だで、本当に……」
「なぁにとろくせえこといっとんだ。俺は拳銃を回収できて、おまえは休むことができた。それでええがや。結果オーライだろ」
さえぎるようにいって、清治はあぐらの上に頬杖をついてつづけた。
「あとよお、俺にゃあおまえが撃たんことがわかっとった。信じる信じないじゃあねえ。ハナから完全完璧にわかっとったがや」
「……ほうなん?」
「おう。だでこっちこやあて」
仕切り直してもう一度呼ぶと、優衣は畳の上にぺたん座りをした。自分でやるという彼女に対して「手当は人にやってもらうんだで手当っつうんだが」と諭し、清治はガーゼや絆創膏を当てていく。
最後に顔に移った。
塚本優衣。
陽の光の中であらためて見てみると、整った顔立ちをしている。
特に目が尋常ではない——。
流線の造形美。
目頭から目じりへと、神様が絵筆で描いたかのようだ。
優衣が持つ大きく切れ長の目には、清治が今まで出会ってきた女性たちからは受けたことのない、妖しく強烈な印象があった。可愛さと美しさの境界線上で起きた奇跡といえばいいのだろうか——気づけば、指先でその目の輪郭をなぞっていた。
手をはたかられることはなかった。疑問符が瞳の中にあるだけだった。
「なにい」
「……いや、傷があるんかと思ったけどなかったわ」
そうごまかすと、優衣は当てられた手に目を流しながらいった。
「あんちゃんの手はつべたいね」
「冷え性だがや。昔っからてんで治らん。我慢しやあ」
「しとらんよ。ひんやりして気持ちええわ」
——君の手、冷たすぎて無理。
いつかの誰かの言葉が清治の心をよぎった。
それは塚本優衣の体温だろうか。じわあ、と指に熱が染み渡っていく気がした。
「あんちゃん?」
優衣に呼ばれ、清治ははっとした。いまだかつてない感覚に内心驚きながらも、絆創膏に手を伸ばす。彼女の口の端が切れていることは知っていたので、そこに貼ってやった。
見たところほかに外傷はなさそうだった。清治は救急キットを片付けはじめる。
「おっしゃ。これで終いだがや」
「……ありがと」
「ミスターマリック顔負けのハンドパワーも注入しといたで、まあじき治るわ」
「ほうだね……」
優衣は少し押し黙ったあとにつぶやいた。
「ね、あんちゃん」
「なにい」
「あたしどうしたらええの」
「どうて。なんの話だ」
「こんなんされたことないよ。布団も風呂も。よう知らんあんちゃんに手当までしてもらって、なんも返せるもん持っとらんじゃんね」
どうやら優衣なりに恩を感じているらしい。
しかし、そう訴えてくる感情は大きすぎる気がした。
これまでの反抗の揺り戻しなのかもしれない。今このとき、まるで命の恩人を見るような目は危うさすら感じるほどに
「ほんなもん気にしんでええがや」
清治が頭を掻くと、優衣はぐいっと身を乗り出した。
「いかん。ね、どうしたらええ? なんかないの」
「そんなに返したいんか」
「ほりゃ返したいよ」
「どうしてもかや」
「なにい。遠慮しんでええよ」
「しゃあねえな。ちいと待っとりゃあ」
清治は立ち上がって、隅に積まれた雑誌の山から一冊を抜き出した。パラパラとめくって目に留まったページを開いたまま、彼女の膝元に放る。
それはアダルト雑誌だった。
「とりあえず着とるもん全部脱げ。ほんでそこに載っとるふうにしろ」
裸の女性が男性器を口で慰めている写真があった。
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