(26)交換条件
次の瞬間には、拳銃を抜かれていた。
「なっ、何しとんだっ」
あわてて捕まえようとするも、手は空を切る。
拳銃に盗難防止用のコードは繋がれていなかった。出動前に休息室でいじくっていたのを思い出す。急いでいたせいでつけ戻し忘れてしまっていたのか。
「動かんで!」
稲妻のような声だった。
清治に銃口をまっすぐ向けながら、優衣は後ずさる。構える腕は震えているし、呼吸も乱れている。だが、瞳だけはぎらぎらと危険な光を宿していた。
ちらりと優衣の背後を見る。交番の外の通りには、人や車の気配がまったくない。まるでゴーストタウンに二人だけが取り残されたみたいだった。
「……動いたら撃つってか。そのセリフは警官の専売特許だがや」
「いんや。今から問答無用で撃つじゃんね」
優衣は表情筋を
「ああん?」
「あんたをここで撃ちゃあ、絶対少年院に入れるだら」
「そんなことしてみやあ。少年院どころか少年刑務所だがや」
「どこでもええよ。地獄でも」
いやに無感情な声だった。
清治は努めて冷静にいった。
「おまえは今錯乱しとるだけだ。深呼吸しやあ。ほんで吐く息と一緒に腕を下ろせ」
「あたしは正気じゃん。撃つったら撃つ。あんたと違って嘘はつかんよ」
「……本気か?」
「冗談に聞こえるなら、へぼい頭しとるね」
「ほうか」
清治は優衣を見すえてつづけた。
「ほいじゃあ特別に教えたるわ」
「なにい」
「そのままじゃ撃てん。安全ゴムを外しゃあ」
「は……?」
「聞こえんかったか。安全ゴムを外せ。引き金の裏だ。顎を引け。肘を伸ばせ。照準を合わせろ。頭でも心臓でもどこでもええ。ちゃんと見つづけろ。本気で撃つんじゃねえんか。撃てんのなら、へぼいんはおまえだがや」
「っ……うっさいわ」
優衣は安全ゴムを外して構え直し、自分にいい聞かせるように繰り返した。
「やったる、やったる……」
彼女は思う。
あとはトリガーを引くだけだ。
人差し指を曲げるという基礎中の基礎の神経伝達。赤子でさえできる動作。
それが、どうして自分にはできないのだろう。
がたがたと照準が狂う。どこを狙って——何をしたくて、こんなことをしている。
わからない。ただ寒くて冷たくて、消えてしまいそうだっただけ。
滲んでいく視界の真ん中に警官がいた。
彼の目は痛いくらいに直線的だった。この震える手元と、どちらが本物の銃口がわからなくなるほどだった。
「——待ちゃあ」
清治がいったのはそのときだった。
両手を上げて抵抗の意思がないことを伝えつつ、優衣への視線を保ったまま机のほうへと移動していく。「動くないうとるがやっ」という声に怯まずいった。
「辞世の句くれえは書かせてくれんか。何も遺せんで死ぬのはさすがに勘弁だでな」
「書くことなんてないじゃんね」
そういう彼女だったが、ボールペンを拾う手をじっと見つめるだけだった。
先ほどのチラシの裏紙に、清治は何かを書き足していく。
「書けたわ」
彼は裏紙を見せてきた。
塚本優衣という名前や生年月日などは変わらない。
しかし、知らない連絡先が書き足されていた。ここからそこまでの道のりらしい簡易地図まで記されている。
どう見ても辞世の句などではない。
優衣は何一つ意味を汲みとれずにいた。
「こいつを塚本優衣、おまえにやる」
「……なんなん、それ」
「俺の部屋へのいき方が書いてある」
清治は裏紙を机の上にそっと戻した。
「家に帰れんつうなら、とりあえずここに逃げ込みゃあ。ぼっさい部屋だが、刑務所よかマシだろ」
「何いっとんの……そんなんいらんわ」
「こいつがありゃあ、部屋に入れる」
ポケットから取り出したのは鍵だった。それを裏紙の上に重ねた。
「鍵とメモ。その拳銃と交換しよまい」
「……は、はっ。そんなんしてええの?」
「俺は、おまえの手からそのとろくっせえ代物が離れやそれでええがや。ほんでべつになんもしん。このまま朝まで勤務を続ける」
「そういってまた騙しよるんだら」
「まあ嘘はつかん。名古屋の男に二言はねえ」
「……あんたの部屋からめちゃんこ金盗って逃げるかもよ」
「ええわ。たいして持っとらん」
「部屋中荒らして回るかもよ」
「寝床を残しといてくれりゃあ構わん」
ぐっと喉を詰まらせる優衣にむかって、清治は自分の目元を指差していった。それは、先ほどまでの銃口のような目ではなかった。
「おまえにゃあ休息が必要だ。鏡見とらんだろ。目のクマがえらいことになっとるぞ。大事な体なんだで、一晩くれえはちゃんと眠ったりゃあ」
「……なんで。なんでそんなこというん」
あいかわらず優衣の声は震えている。しかし、そこにこもっている感情の名前が変わっている気がした。
「なんで、そんなんばっか」
「知らん。おまえがいわせとるんだがあ」
「人のせいにしんでよ……」
「ほうなんだでしゃあねえだろ」
実際にわからなかった。
なぜここまで目の前の少女のために身を削るのか。心を配るのか。職務だけをこなして放っておくことができないのか。
すべてを説明することはできない。
それでもたしかなのは、この選択に後悔は何も残らないだろうということ。
「……どうなっても知らんよ」
いつのまにか、優衣の腕は拳銃を下ろしていた。きっとその鉄の塊は重すぎたのだ。
清治が頷くと、優衣はメモと鍵をスクールバッグに突っ込んで後ずさっていく。出入口の戸を後ろ手で開けて、拳銃を放棄すると同時に、俊敏な動きで闇夜の中へと駆けていってしまった。さながらやはり猫みたいだった。
「…………ぐはあっ」
十数秒後に、やっとのことで清治は長い息を吐くことができた。床にへたれ込む。
「まあ何発か食らったみてえな気分だわ……」
撃ってみろ、などと優衣を試す真似をしたのはよけいだったかもしれない。
けれど信じたかったし、信じられると確信めいたものがあった。それをより強固なものに変えたかった。本当の意味で悪事を働ける人間ではないと、彼女自身に思い知らせてやりたかったのだと思う。
装備の不適切な取扱い。それを非力な少女に奪われる失態——。
アパートの鍵を犠牲にしてなんとか挽回することができたが、塚本優衣のことはますます松尾に報告できなくなってしまった。
「どうしたもんかや」
床に横たわっている拳銃を眺めながら、清治はやがてくる朝のことを考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます