(25)ミッドナイト・ボックス
清治が少女を連れて帰った交番は、昭和の置き土産というべき建物だ。塗装はところどころ剥がれ落ち、赤いランプの光は提灯みたいに頼りない。
「ほれ、入りゃあ」
がらがらと戸を開けて、中に少女を入れてやる。
古ぼけた蛍光灯の下、彼女はパイプ椅子の上で反抗的に足を組む。
清治は対面に座り、持ち出した用紙を机に広げた。紙面をボールペンの先で叩きながら尋ねる。
「不良娘の名前はなんつうんだ」
「なんだろね。人に名前を聞くときは、まず自分から名乗らなかんだらあ?」
「俺は金田清治だ。見てのとおり警官やっとる」
即座に答えて用紙に漢字を書く。
意外な反応だったのか、少女はわずかに目を丸くした。
「ほんでおまえは?」と清治はペン先を向ける。
逡巡を含んだ沈黙のあと、少女はツカモトユイといった。
ペンを半回転させて持ち手を寄こすと、受けとって
こうして意外と素直に応えてくれるところは、なんだか可愛らしく思える。
しかし、清治の口から出た言葉はこうだった。
「似合わん名前だ」
「はぁ? 似合わんていいよった?」
実際にそうだ。
優衣——優しいとはいいがたい気性だと思っていた。
コンビニでは暴れ、変態アホ警官なんて不名誉な悪態もついてくる。清治を見るときは十中八九にらんでいるし、背中も殴ってくる。優しそうな印象は欠片もない。
「いった。もっと可愛らしけりゃ褒めたったけどなあ」
「あんちゃんこそ清治なんて合っとらんがん」
「なんだと」
「どこが清いん? いってみやあ」
警察官として清らかさと無縁の働きぶりは、自他ともに認めるものだ。汚職をしていないことが唯一のアピールポイントである。清治は反論の余地なしと判断して無視を決め込んだ。
「次は年齢を答えてくれんか?」
「いえんの? ほいじゃあたしも答えん」
優衣はへらへらと笑った。
「ええわ。三十代のコスプレ女て書いとくで」
「たーけ。ちゃんとした制服だわ。あと十六。そんな老けとるようにゃあ見えんだらあ」
「たあけ。白状しよった」
清治はかっかっと笑った。
「しょんべんくせえ娘だもんで、むしろ中坊くらいかて思っとったがや」
簡単に釣られたからか、小娘扱いされたからか、歯ぎしりが聞こえてきそうな顔でにらみつけてくる。それをスルーして清治は質問を移した。
「あとはほうだな。どこに住んどる」
すると、優衣は口を閉ざしてしまった。
清治は訝しんだ。その沈黙が、今までのような機嫌の悪さによるものではないと思えたからだ。「なにい。宇宙からきたとかいってかんぞ」などと冗談を飛ばすも、反応はなかった。
彼はため息とともに、ペンを机の上に放る。
「いえんか。なんでだ」
「……いわなかんの?」
「俺が書いとるのなんだと思う?」
「……取り調べの紙?」
「知っとるな。調書だ。少年院にぶち込む準備だがや。必要な情報だろうが」
「ほうかもしれんけど……」
そこに入りたいらしい優衣は、しかしまだ何かを警戒している様子だった。
清治はしびれを切らして腰を浮かせた。彼女のスクールバッグに手を伸ばす。
「生徒手帳を持っとるだろ。見してみやあ」
元来、気の長い性格ではなかった。思えば、聴取などという面倒くさいことをする必要はなかったのだ。すべての個人情報はそこに載っているのだから。
「や。見んで」と優衣は清治の腕をつかむが、邪魔にもならない。
生徒手帳を発見して開く。市内の公立高校のものだ。
「家はどえりゃあ離れとるわけじゃねえんだな。……おし、ありがとさん」
清治は生年月日や連絡先を用紙に書き写し終えて、生徒手帳を優衣の胸に放った。
複雑そうなまなざしの彼女を尻目に、彼は壁際まで歩いていく。
そして、固定電話のダイヤルボタンを押しはじめた。
「なっ、何しとんのっ」
立ち上がる優衣に振り返っていう。
「何て、電話だがや。まあ家出も潮時だろ。このままじゃあ日付が変わってまう。やっぱりな、親御さんに迎えにきてもらわなかん」
「だで親なんてっ」
「親なんて迎えにこん。おまえはほういっとったけど、こんならこんで送り届けたるわ。なっとらん親だ。いっぺん説教かましたってもええ」
「そんなんしたって、あたしはあの家に入れんわっ」
迎えにこないし、家にも入れてくれない——。
なら、それは誰だ。
清治の脳裏に母方の親戚の顔が浮かんだ。彼らはそんなことをするほどひどくなかった。
優衣は聞いてきた。声の震えは青ずんだ目元まで伝わっていた。
「少年院に入れてくれるんじゃなかったん? 調書だて書いたがね」
「こんなんメモだがや」
清治は用紙をひらつかせる。
様式も何もないチラシの裏紙だ。こんなものが調書であるわけがない。
「名前も住所も、全部必要だて」
「ほりゃ知らんと連絡しようがねえが」
「少年院に入れるのに必要だて、いったがね」
「たあけが。おまえみてえな娘は少年院なんて入るべきじゃねえし、入れるわけもねえ。せいぜい始末書でも書かせて放免だがや。俺はそいつもいらんて思っとるけどな」
「……騙したん?」
「違うとはいえん」
「嘘ついたん?」
優衣はうつむいていく。
胸がざわめき、徐々に痛みに変わるのを清治は感じた。
「嘘かもしれん。けどよお、ふつうに考えやわかるがや。おまえはものを知らんな」
そういいつつも、ダイヤルを押す手は止まっていた。
自分が甘いのかどうかわからなかった。清治は受話器を戻していった。
「……始末書もいらん思っとるて、俺はいったな」
「……」
「おまえはオーナーに謝ることのできた娘だ。ごめんなさいていえたがや。始末書なんてその一言で吹っ飛ぶんだわ。おまえは悪い娘じゃねえ。少年院に入りたいなんてぬかすな。ほんなもんよりええところがきっとある。探しゃあええ」
そう投げかけ、優衣に背を向けて詰所の奥へと進む。手をかける戸の先は休息室だ。
「おまえが何か抱えとんのはわかる。ちょっとでええで話してみやあ」
「……」
「まずは傷の手当しよまい。終わったら茶を淹れたる。さぶいでな、ちんちんのやつだ。ほいで温まって気分が落ち着いたら——」
—―とん、と背中に柔らかい感触が触れた。
清治は振り返ることはしなかった。
塚本優衣が抱きついてきているのはわかっていた。
どれだけ強がっても十代の少女。本当は誰かにすがりたかったに違いない。
ようやく心を開いてくれたことに安堵しつつ、それと同時に清治は、たまにはこんなふうに誰かの寄りかかれる木になるのも悪くない——なんて感慨に柄にもなくふけっていた。
だから、反応が遅れた。
ホルスターの蓋が外される音が聞こえた。
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