(19)2000:交換条件



 清治が少女を連れて帰った交番は、昭和の置き土産というべき建物だ。塗装はところどころ剥がれ落ち、赤いランプの光は提灯みたいに頼りない。


「ほれ、入りゃあ」


 がらがらと戸を開けて、中に少女を入れてやる。

 古ぼけた蛍光灯の下、彼女は座らせたパイプ椅子の上で足を組み、反抗的な態度でじっと見つめてきていた。

 清治は対面に座り、持ち出した用紙をスチール製の机の上に広げる。紙面をボールペンの先で叩きながら尋ねた。


「不良娘の名前はなんつうんだ」

「なんだろね。人に名前を聞くときは、まず自分から名乗らなかんだらあ?」

「俺は金田清治だ。見てのとおり警官やっとる」


 即座に答えて用紙に漢字を書く。

 意外な反応だったのか、少女はわずかに目を丸くした。

 清治は「ほんでおまえは?」とペン先を少女に向ける。

 逡巡を含んだ沈黙のあと、少女はツカモトユイといった。ペンを半回転させて持ち手を寄こすと、受けとって塚本優衣つかもとゆいと書く。

 こうして、いざ望んだときに素直に応えてくれるところはなんだか可愛らしく思える。しかし清治の口から出た言葉はこうだった。


「似合わん名前だ」

「はぁ? 似合わんていいよった?」

 

 実際にそうだ。優衣——優しいとはいいがたい気性だと思っていた。

 コンビニでは暴れ、変態アホ警官なんていう不名誉な悪態もついてくる。清治を見るときは十中八九にらんでいるし、背中も殴ってくる。優しそうな印象は欠片もない。


「いった。もっと可愛らしけりゃ褒めたったけどなあ」

「あんちゃんこそ清治なんて合っとらんがん」

「なんだと」

「どこが清いん? いってみやあ」


 優衣は小さな顎をしゃくってくる。

 警察官として清らかさと無縁の働きぶりは、自他ともに認めるものだ。汚職をしていないことが唯一のプライドである。清治は反論の余地なしと判断して無視を決め込んだ。


「次は年齢を答えてくれんか」

「いえんの? ほいじゃあたしも答えん」


 優衣はへらへらと笑った。


「ええわ。三十代のコスプレ女て書いとくで」

「たーけ。ちゃんとした制服だわ。あと十六。そんな老けとるようにゃあ見えんだらあ」

「たあけ。白状しよった」


 清治はかっかっと笑った。


「しょんべんくせえ娘だもんで、むしろ中坊くらいかて思っとったがや」


 簡単に釣られたからか、小娘扱いされたからか、歯ぎしりが聞こえてきそうな顔でにらみつけてくる。それをスルーして清治は質問を移した。


「あとはほうだな。どこに住んどる」


 すると、優衣は眉間に皺を寄せて口を閉ざしてしまった。

 清治は訝しんだ。その沈黙が、今までのような機嫌の悪さによるものではないと思えたからだ。「なにい。宇宙からきたとかいってかんぞ」などと冗談を飛ばすも、反応はなかった。

 彼はため息とともに、ペンを机の上に放る。


「いえんか。なんでだ」

「……いわなかんの?」

「俺が書いとるのなんだと思う」

「……取り調べの紙?」

「知っとるな。調書だ。少年院にぶち込む準備だがや。必要な情報だろうが」

「ほうかもしれんけど……」


 そこに入りたいらしい優衣はしかし、まだ何かを警戒している様子だった。

 清治はしびれを切らして腰を浮かせた。彼女のスクールバッグに手を伸ばす。


「生徒手帳を持っとるだろ。見してみやあ」


 元来、気の長い性格ではなかった。思えば、聴取などという面倒くさいことをする必要はなかったのだ。すべての個人情報はそこに載っているのだから。

「や。見んで」と優衣は清治の腕をつかむが、邪魔にもならない。

 生徒手帳を発見して開く。市内の公立高校のものだ。

 今より少し幼い、つまらなさそうな表情の証明写真。明朝体で印刷された氏名。生年月日。住所と連絡先。


「家はどえりゃあ離れとるわけじゃねえんだな。……おし、ありがとさん」


 清治は用紙に書き写し終えて、生徒手帳を優衣の胸に放った。

 複雑そうなまなざしの彼女を尻目に、彼は壁際まで歩いていく。

 そして固定電話のダイヤルボタンを押しはじめた。


「なっ、何しとんのっ」


 立ち上がる優衣に振り返っていう。


「何て、電話だがや。まあ家出も潮時だろ。このままじゃあ日付が変わってまう。やっぱりな、親御さんに迎えにきてもらわなかん」

「だで親なんてっ」

「親なんて迎えにこん。おまえはほういっとったけど、こんならこんで送り届けたるわ。なっとらん親だ。いっぺん説教かましたってもええ」

「そんなんしたって、あたしはあの家に入れんわっ」

 

 迎えにこないし、家にも入れてくれない。ならそれは誰だ。

 清治の脳裏に母方の親戚の顔が浮かんだ。彼らはそんなことをするほどひどくなかった。

 優衣はつづけて聞いてきた。声の震えは青ずんだ目元まで伝わっていた。


「少年院に入れてくれるんじゃなかったん? 調書だて書いたがね」

「こんなんメモだがや」


 清治は用紙をひらつかせる。様式も何もないチラシの裏紙だ。こんなものが調書であるわけがない。


「名前も住所も、全部必要だて」

「ほりゃ知らんと連絡しようがねえが」

「少年院に入れるのに必要だて、いったがね」

「たあけが。おまえみてえな娘は少年院なんて入るべきじゃねえし、入れるわけもねえ。せいぜい始末書でも書かせて放免だがや。俺はそいつもいらんて思っとるけどな」

「……騙したん?」

「違うとはいえん」

「嘘ついたん?」


 胸がざわめき、徐々に痛みに変わるのを清治は感じた。


「嘘かもしれん。けどよお、ふつうに考えやわかるがや。おまえはものを知らんな」


 そういいつつも、ダイヤルを押す手は止まっていた。うつむいて顔は見えないが、優衣が涙をこぼす寸前なのは察することができた。

 自分が甘いのかどうかわからなかった。清治は受話器を戻していった。


「……始末書もいらん思っとるて、俺はいったな」

「……」

「おまえはオーナーに謝ることのできた娘だ。ごめんなさいていえたがや。始末書なんてその一言で吹っ飛ぶんだわ。おまえは悪い娘じゃねえ。少年院に入りたいなんてぬかすな。ほんなもんよりええところがきっとある。探しゃあええ」


 そう投げかけ、優衣に背を向けて詰所の奥へと進む。手をかける戸の先は休息室だ。


「おまえが何か抱えとんのはわかる。ちょっとでええで話してみやあ」

「……」

「まずは傷の手当しよまい。終わったら茶を淹れたる。さぶいでな、ちんちんのやつだ。ほいで温まって気分が落ち着いたら——」


 —―とん、と背中に柔らかい感触が触れた。

 清治は振り返ることはしなかった。

 塚本優衣が抱きついてきているのはわかっていた。

 どれだけ強がっても十代の少女。心は未熟でか弱いものだ。本当は誰かにすがりたかったに違いない。

 ようやく心を開いてくれたことに安堵しつつ、それと同時に清治は、たまにはこんなふうに誰かの寄りかかれる木になるのも悪くない——なんて感慨に柄にもなくふけっていた。


 だから、反応が遅れた。


 ホルスターの蓋が外される音が聞こえた。

 その次の瞬間には、拳銃を抜かれていた。


「なっ、何しとんだっ」


 あわてて捕まえようとするも、手は空を切る。

 拳銃に盗難防止用のコードは繋がれていなかった。出動前に休息室でいじくっていたのを思い出す。急いでいたせいでつけ戻し忘れてしまっていたのか。


「動かんで!」


 稲妻のような声だった。

 清治に銃口をまっすぐ向けながら、優衣は後ずさる。構える腕は震えているし、呼吸も乱れている。だが、瞳だけはぎらぎらと乱反射する光を宿していた。

 清治は何度かその目と対峙したことがあった。人が罪を犯す間際の眼光だ。

 ちらりと優衣の背後を見る。交番の外の通りには、人や車の気配がまったくない。まるでゴーストタウンに二人だけが取り残されたみたいだった。


「……動いたら撃つってか。そのセリフは警官の専売特許だがや」

「いんや。今から問答無用で撃つじゃんね」


 優衣は表情筋をったように笑った。


「ああん?」

「あんたをここで撃ちゃあ、絶対少年院に入れるだら」

「そんなことしてみやあ。少年院どころか少年刑務所だがや」

「どこでもええよ。地獄でも」


 いやに無感情な声だった。

 清治は努めて冷静にいった。


「おまえは今錯乱しとるだけだ。深呼吸しやあ。ほんで吐く息と一緒に腕を下ろせ」

「あたしは正気じゃん。撃つったら撃つ。あんたと違って嘘はつかんよ」

「……本気か?」

「冗談に聞こえるなら、へぼい頭しとるね」

「ほうか」


 清治は優衣を見すえてつづけた。


「ほいじゃあ特別に教えたるわ」

「なにい」

「そのままじゃ撃てん。安全ゴムを外しゃあ」

「は……?」

「聞こえんかったか。安全ゴムを外せ。引き金の裏だ。顎を引け。肘を伸ばせ。照準を合わせろ。頭でも心臓でもどこでもええ。ちゃんと見つづけろ。本気で撃つんじゃねえんか。撃てんのなら、へぼいんはおまえだがや」

「っ……うっさいわ」


 優衣は安全ゴムを外して構え直し、自分にいい聞かせるように繰り返した。


「やったる、やったる……」


 彼女は思う。

 あとはトリガーを引くだけだ。

 人差し指を曲げるという基礎中の基礎の神経伝達。赤子でさえできる動作。

 それが、どうして自分にはできないのだろう。

 がたがたと照準が狂う。どこを狙って——何をしたくて、こんなことをしている。

 わからない。ただ寒くて冷たくて、消えてしまいそうだっただけ。

 滲んでいく視界の真ん中に警官がいた。

 彼の目は痛いくらいに直線的だった。この震える手元と、どちらが本物の銃口がわからなくなるほどだった。


「——待ちゃあ」


 清治がいったのはそのときだった。

 両手を上げて抵抗の意思がないことを伝える。そして、優衣への視線を保ったまま机のほうへと移動していく。「動くないうとるがやっ」という声に怯まずいった。


「辞世の句くれえは書かせてくれんか。何も遺せんで死ぬのはさすがに勘弁だでな」

「書くことなんてないじゃんね」


 そういう彼女だったが、ボールペンを拾う手をじっと見つめるだけだった。

 先ほどのチラシの裏紙に、清治は何かを書き足していく。


「書けたわ」


 彼は裏紙を見せてきた。

 塚本優衣という名前や生年月日などは変わらない。

 しかし、知らない電話番号と住所が書き足されていた。ここからそこまでの道のりらしい簡易地図まで記されている。

 どう見ても辞世の句などではない。優衣は何一つ意味を汲みとれずにいた。


「こいつを塚本優衣、おまえにやる」

「……なんなん、それ」

「俺の部屋へのいき方が書いてある」


 清治は裏紙を机の上にそっと戻した。


「家に帰れんつうなら、とりあえずここに逃げ込みゃあ。ぼっさい部屋だが、刑務所よかマシだろ」

「何いっとんの……そんなんいらんわ」

「こいつがありゃあ、部屋に入れる」


 ポケットから取り出したのは鍵だった。それを裏紙の上に重ねた。


「鍵とメモ。その拳銃と交換しよまい」

「……は、はっ。そんなんしてええの?」

「俺は、おまえの手からそのとろくっせえ代物が離れやそれでええがや。ほんでべつになんもしん。このまま朝まで勤務を続ける」

「そういってまた騙しよるんだら」

「まあ嘘はつかん。名古屋の男に二言はねえ」

「……あんたの部屋からめちゃんこ金盗って逃げるかもよ」

「ええわ。たいして持っとらん」

「部屋中荒らして回るかもよ」

「寝床を残しといてくれりゃあ構わん」


 ぐっと喉を詰まらせる優衣にむかって、清治は自分の目元を指差していった。それは、先ほどまでの銃口のような目ではなかった。


「おまえにゃあ休息が必要だ。鏡見とらんだろ。目のクマがえらいことになっとるぞ。大事な体なんだで、一晩くれえはちゃんと眠ったりゃあ」

「……なんで。なんでそんなこというん」


 あいかわらず優衣の声は震えている。しかし、そこにこもっている感情の名前が変わっている気がした。


「なんでそんなんばっか」

「知らん。おまえがいわせとるんだがあ」

「人のせいにしんでよ……」

「ほうなんだでしゃあねえだろ」


 実際にわからなかった。

 なぜここまで目の前の少女のために身を削るのか。心を配るのか。職務だけをこなして放っておくことができないのか。

 すべてを説明することはできない。

 それでもたしかなのは、この選択に後悔は何も残らないだろうということ。


「……どうなっても知らんよ」


 一言だけいってきた。いつのまにか、優衣の腕は拳銃を下ろしていた。きっとその鉄の塊は重すぎたのだ。

 清治が頷くと、優衣はメモと鍵をスクールバッグに突っ込んで後ずさっていく。出入口の戸を後ろ手で開けて、拳銃を放棄すると同時に、俊敏な動きで闇夜の中へと駆けていってしまった。さながらやはり猫みたいだった。

 

 静寂。


 十数秒後に、やっとのことで清治は長い息を吐くことができた。床にへたれ込む。


「ぐはあ。まあ何発か食らったみてえな気分だわ……」


 撃ってみろ、などと優衣を試す真似をしたのはよけいだったかもしれない。

 けれど信じたかったし、信じられると確信めいたものがあった。それをより強固なものに変えたかった。本当の意味で悪事を働ける人間ではないと、彼女自身に思い知らせてやりたかったのだと思う。

 装備の不適切な取扱い。それを非力な少女に奪われる失態——。

 アパートの鍵を犠牲にしてなんとか挽回することができたが、塚本優衣のことはますます松尾に報告できなくなってしまった。


「どうしたもんかや」


 床に横たわっている拳銃を眺めながら、清治はやがてくる朝のことを考えていた。



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