(18)2000:月を煙に巻く



 巡査部長の松尾には、先日の不良娘のことは報告しないでいた。対応について叱責されるのは目に見えていたし——なぜか、自分の中に抱えておきたいことだと清治は思った。

 その松尾はというと、今日は急な体調不良で欠勤していた。おおかた寒さにやられて風邪でもひいたのだろう。

 うるさい上司がいなくて悠々自適に過ごせると考えていたが、そういうときに限って事件を起こすのが、運命というやつの悪癖だ。

 通報があったのは、夜中の十時過ぎだった。その時間帯にはなにかと縁がある。

 内容としては、若者が喧嘩をしているとのことだった。

 清治はそのとき、交番の休息室で寝転がってサボっていた。口笛まじりにいじって遊んでいた拳銃をあわてて腰のホルスターに突っ込み、飛び出した。

 警ら用の自転車を漕ぎつづけ、通報があった場所に差しかかると、小さな集団が見えてきた。なにやら罵る声が聞こえる。あれが事件の現場で間違いなさそうだ。

 警笛を吹く。甲高い音が空気を裂いた。


「どらぁ! おみゃあら何しとんだあ!」


 やべえ。マッポだ。はよ逃げよまい。

 そう口々に逃げていくのは、少年少女の群れ。


「待てやぁ! たあけぇ!」


 追いかけようとサドルから腰を浮かせた清治だったが、ぽつりと取り残された人影を発見してブレーキをかけた。

 人影はフェンスに寄りかかって、地べたに座り込んでいる。

 その手負いの猫のような雰囲気には見覚えがあった。

 というより、つい先日に大立ち回りを演じたばかりだった。


「おまえ、こないだの不良娘かや」


 自転車をとめて少女に駆け寄る。

 近くでは、スクールバッグが中身をひっくり返されていた。盗れるものを漁られたのかもしれない。喧嘩だと聞いていたが、実態は複数人対一人の暴行事件みたいだ。


「袋にされたんか。平気か」


 清治が膝をついて声をかけると、少女は苦しそうに声を発した。


「平気そうに見えるん……?」

「そりゃ見えんが。おいおい。唇切れとるぞ」


 頬に当てようとした手をはたかれた。きっとにらんでくる。


「アホ警官が触らんで。気色悪い」


 いらっとした。心配してやっているのに——。


「んだあみゃあ」


 思わず少女の胸ぐらをつかみかけた清治だったが、その胸ぐらからボタンが飛んでしまっていることに気がついた。砂利のついた鎖骨がわずかに上下するのみである。よく見れば高校の制服はかなり汚れており、腹や太ももには蹴られたみたいな痕跡があった。こっぴどくやられたみたいだ。

 その痛々しい光景は、彼をクールダウンさせるのに十分だった。


「……わかった。触らん。けどよお、なんでこうなったかは話してくれんか」

「理由なんてにゃあわ」

「たあけ。わけもなしにやられすか」


 清治が真剣な目で迫ると、少女は顔をそらしながらこぼした。


「……つまらんけど」

「なんも笑えんのはわかっとる。はよいやあ」


 聞くところによると——彼女が夜の町を歩いていると、たむろして煙草を吸っている少年少女の集団がいたのだそうだ。「くっさいなあ。はよほかれ」といい放ったところから揉め事は始まった。数的不利は確実だったが、先に手を出したのは彼女のほうらしい。案の定すぐに袋叩きされるはめになった、とのことだった。

 何を馬鹿げたことをしているのだと思った。しかもこんな女子高生が。

 自分ならあの何倍の人数を相手取っても勝利は揺るがないが、彼女はけして喧嘩が得意そうには見えなかった。むしろ華奢な印象さえある。

 無謀。蛮勇。いや——自暴自棄だろうか。


「なんでそんなことしとんだ。負け戦だてわかっとっただろ」

「やってみなわからんがね。てゆうか、負けとらんし」

「あ? そのツラでよういえるな」

「勝ったじゃんね」


 切れた唇を痛そうにしながらも、少女は不敵な笑みでいった。笑うのを見たのは初めてだった。


「戦利品。あの連中から奪ったった」


 手の中にあったのは、煙草のソフトボックスと百円ライターだった。銘柄はセブンスター。高校時代に清治が吸っていたものと同じである。

 少女はその一本を咥えると、まがりなりにも警官である清治の前でためらいなく火をつけた。「おい、やめやあ」と彼がいう間にも紫煙を立ち昇らせる。

 そして盛大にむせ込んでいた。


「ごほっごほっえうっ」

「ほれみい。やめろいうたがや、たあけ。吸ったことねえんだろ」

「……万引きに喧嘩に未成年喫煙……まあ少年院くらいいけるだら」


 先日もコンビニの事務所でいっていた。そこに入りたいと。


「まぁたそれかや。ええ加減にしやあて。なんでそんなこというんだ」


 少女は答えずに「入れやあ」とだけいってきた。

 清治はその目を見つめた。そして、無言で小さな手から煙草を引きとった。体力がすでに底を突いていたのか、驚くそぶりこそあっても抵抗はされなかった。

 彼はフィルターに口をつけ、肺の奥まで吸い込む。そして見せつけるように、大量の煙を宙に吐き出した。濁った白色が、月を覆い隠してしまうくらいに夜空でうごめいていた。


「ヤニはこうやってやんだ。覚えんでええけどな」


 清治は煙草を地面に落として、ぐりぐりと短靴の底で潰す。


「お天道さんは見とらん。お月様も煙にまいた。けどよお、警官の前で喫煙とは見過ごせん。不良娘。おまえは補導対象だがや」

「……はあ?」


 清治は漁られた中身を拾い集め、スクールバッグを彼女に放り投げる。それから警ら用の自転車のスタンドを上げて、荷台のボックス——通称『弁当箱』を叩いて顎をしゃくってみせた。


「ほれ、ケツに乗りゃあ。交番まで連れてくで」

「なんでそんなことしなかんの」

「ひっ捕らえんと、ネンショーもクソもねえだろが」


 少女はためらっていたようだったが、身を起こして近づいてくる。先にまたがっていた清治の肩をつかんで、ひょいと飛び乗った。手負いでも身軽な猫だ。弁当箱の上に尻を乗せ、両足は揃えて横に投げ出すかたちをとる。


「出すぞ。ちゃんとつかまっとりゃあよ」


 漕ぎ出しはスムーズだった。軽すぎて本当に後ろに乗っているのかと思った清治だったが、制服をつまんでくる感触に息をつく。

 ぎいぎいと音を立てながら、夜をゆっくりと進んでいく。

 遠くの港のほうに、中京工業地帯を支える製鉄所の光たちが織り成す工場夜景が見えていた。ロマンチックなスポットに比べれば無機質ではあるが、存外に悪くない。

 清治はつぶやいた。


「なぁんか、おまえにゃあまた会う気がしとった」

「……」

「まだ家出しとんのか」

「……」

「パンは食ったか」

「……食ったよ」

「ちょこっとは腹空かさずに済んだかや」

「お腹なんか減っとらんかったじゃんね」

「ほーん。ならありゃ地鳴りだったんか。ぐううううってなあ。恐怖の大王もくんの遅えわ」

 

 無言で背中を殴られた。その衝撃だろうか、ふふっと口から空気がもれた。


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