第二章
(15)2000:コンロの火
※
ノストラダムスの大予言も空しく、あれだけ人々が恐れた世紀末は、結局何も破滅に導くことなく去っていった。
ミレミアムベイビーという言葉が生まれ、シドニー五輪では女子マラソンで日本人初の金メダリストが誕生し、有線ではhitomiの『LOVE2000』がずっと流れていた。不況は続けど、新世紀の幕開けに列島は浮かれてすらいた。
気を抜いたときに身が震えそうな晩秋の夜だった。
一人の若い巡査が自販機の前に立ち、制服のズボンのポケットに手を突っ込む。裸の小銭を手のひらに広げて、目の前の光を頼りに百円玉と十円玉を指で弾き出す。それらを投入して、迷わず缶コーヒーの『あったか~い』と書かれたほうのボタンを押した。
「おみゃあさん、まあほんなもん飲んどるんか」
後ろから巡査部長の
巡査は缶を取り出しつつ返す。
「冷え性だもんで。夜の巡回はえらいんですわ」
「ほれ、ちゃっちゃと飲め。続きいくぞ」
「まだ飲まんて。こいつはホッカイロがわりなんだで」
ホットコーヒーを懐に忍ばせて、巡査は警ら用の自転車にまたがった。
松尾と並んで静かな町の中を巡っていく。
「暇でいかんなあ」
巡査はあくびをごまかすことなく大口を開ける。
「なんか事件でも起きやあシャキっとすんだがよぉ」
「なんちゅう発言だ。また始末書書かせたるぞ」
「冗談に決まっとりますて」
いちおうはパトロール中ということで夜道を確認していくが、人影は一つもない。善良な市民は今ごろ夜風のない部屋で眠りについているのだろう。
巡査はホッカイロの役割を全うした缶コーヒーを取り出し、片手でプルタブを開ける。いっきに口に流し込むとげっぷが出た。
松尾が苦い顔をしていう。
「おまえはまあどうしようもないやつだな」
「監視されとるわけじゃなしに。こんぐれえ許してもらわんとやっとれんて」
「この勤務態度じゃあ巡査長にもなれんな。万年巡査だわ」
「かーっ。未来の警視総監捕まえて、なぁにいっとりゃあすか」
「警視総監だ? ノンキャリのジョークはおもしろいな」
「
わははは、と住民の夢見を邪魔しない程度に笑い合う。
しばらくしてダストボックスを見つけ、空き缶を放り込んだときだった。
どこからか悲鳴が上がった。
見れば、夜道のむこうで女性が尻もちをついている。
その近くには、女物のバッグを手に走りだす男の影。
「ひったくり」と聞こえた。
「現行犯だっ。いったれっ」
松尾が反応した——そのときにはもう、巡査はハンドルを大きく切っていた。
「いわれんでも、いったります」
自転車のペダルを思いっきり踏み込む。がこんとチェーンが飛んで嫌な音を立てるが関係ない。ぎいぎいと悲鳴を上げる車体に鞭打ち、巡査は逃走する男に迫っていく。
「おみゃあさん、わかっとるな!?」
そう松尾が後ろからいってくるが、もう巡査の耳には届いていない。
「止まれっ。止まれやっ」
巡査は声を張るが、男にはまったく聞き入れる気配がない。
男は振り返って追いつかれると悟ったのか、曲がり角で方向転換を試みた。
そこに巡査はドリフトをしつつ自転車から飛びついて、身体ごとぶつける。
二人は揉み合いながらアスファルトの上を転がった。道の先で自転車と電柱が衝突する音がした。
「ふざけんなや……このクソマッポがぁ」
「止まれいうとるがぁ」
よろめきながら同時に立ち上がる。
「こんにゃろっ」
男が殴りかかってきた。
巡査は対決する。
警察学校で学んできた逮捕術——などというものはいっさい使わなかった。
警棒も不要。
単純によけて、単純に拳を振り抜く。
あたかも
拳は男の顔面にめり込み、一発で意識を吹き飛ばした。
「あちゃあ……」
と、松尾が頭を抱える。
巡査は地面でのびている男にむかって勝どきを上げた。
「公務執行妨害だぎゃあ!! たあけぇ!!」
——その年。
西暦二〇〇〇年。
愛知県は名古屋市。
当直勤務を終え、朝日の香りが漂うなか、清治は帰路につく。
安アパートのドアを開けると、張替えを待つ畳のにおいが迎え入れてくれた。外から差し込む光の中、ダイヤモンドダストのようにうっすらと埃が踊っている。
テレビのスイッチを入れる。ブラウン管の中では、今シーズンの中日ドラゴンズの戦績に対して、出演者たちがああだこうだと議論していた。
「中日はAクラス。俺の人生はBクラスってか。……ほれともCクラスかや」
やかんに水道水を注ぎながら独りごちる。ガスコンロは三回目の試行で火が点いた。
寒さに小さく背筋が震え、揺らめく橙色に手をかざしてみる。ぼんやりと温かい。そのまま両手をすり合わせるが、離して少しすると、指先はすでに熱を失っていた。
清治は幼いころから冷え性だった。
末端が極度に冷たい。
冬のしもやけは毎年発症しており、そのたびに母親の手から体温を分けてもらったり、はあっと息を吐きかけてもらったりしていた。
しかし思えば、そのころが人生で一番症状が和らいでいた気がする。
なにより心が温かかったからだ。
——小学二年生のときだった。
あのときほど県内の不名誉な交通事情を恨んだことはなかった。
両親が自動車事故で他界してからは、冷えは悪化の一途をたどった。
清治は母方の親戚の家に引きとられた。
しかしそこで知ったのが、母親は望まれぬ恋をしていたこと、駆け落ち同然に父と一緒になったということだった。
そんな女の息子を歓迎する器量を、彼らは持ち合わせていなかった。言葉の端々、行動の折々に
他人の家での居候生活は終わらない冬だった。
取り除けない心の
——金田清治は家族がほしかった。
とはいえ、学生であるうちは最低限の衣食住はこしらえてくれていたから、養父母にはそれなりに感謝も義理も感じていた。
なので、高校三年生のときに「清治、警察官にならんか」と当局にコネクションを持つ養父にいわれた際は、二つ返事で了承した。
当然だ。これ以上この家の厄介になることはできないし、彼らも自分の将来を担保する気がないことを知っていた。
安定した収入があり自立ができて、なおかつ人に誇れる仕事だ——。
そう、おまえのためだと懇切丁寧に説かれた言葉を、清治は素直に受けとっておくことにした。就きたい仕事ではなかったが、ほかにやりたいこともなかった。
そうして進んだ警察学校は苦痛の連続だった。
授業や実習の厳しさが、ではない。
清治にはそれよりも耐えがたいものがあった。
義務となっていた寮での共同生活だ。
数名が同じ部屋で日々に励む連帯感は、かえって彼の孤独感を刺激しつづけた。
ほかの生徒にはちゃんと本当の家族がいた。心の故郷があった。
俺のおふくろはああだった。俺の親父はこうだった——。
そういった話を聞くたびに、少しでも結束を感じる自分がひどく滑稽な存在に感じられた。贋物のおもちゃを与えられて喜ぶ子どものようだった。
だから、そこを卒業したあとは、大半が移ることになる独身寮を選ぶことはしなかった。
結局は全員が同じ屋根の下だ。いっそのこと完全に一人になったほうが気楽だし、集団の中の孤独を感じずに済む。
——そんなとろくせえところいかすか。
不思議がる同期や、生意気な野郎だと鼻を鳴らす先輩たちにそういってやったあとに探し出したのが、この安アパート——フタバ荘の一号室だった。
平屋の長屋造りで、他の住人はいない。独身寮より古臭くて家賃も高いぐらいだったが、住み心地は悪くなかった。
そんな清治を、皆は『はみだしもん』と呼んだ。
そして、はみだしていたのはそれだけではなかった。
彼は警察官としてまったくもって模範的ではなかった。
勤務中の怠けや飲食。住民との不必要な談笑。公序良俗に反する言動。細かい規則破りは数知れず。職務質問は安全確認のためではなく、自分が気に食わないと思った人間に絡みにいく、などなど——公僕にはふさわしくないパーソナリティだった。
さらに極めつけは逮捕時の打撃使用だ。
清治は元々、日常のストレスを紛らわすために、学生のころからよく喧嘩をしていた。
街中で目が合ったからというだけで殴り合ったし、知人の交際相手におてつきをして殴られては殴り返す、なんてことをしていた。
拳を握ったときだけ、その手は熱を帯び、冷え性がなくなるような気がしていた。それがただの鬱血であることも理解していた。
喧嘩っ早い性格はなかなか矯正されなかった。
国家権力による暴行は極力控えるべきだったが、昨晩のような捕り物の際には、『公務執行妨害』という魔法の呪文を唱えながらの一発二発の殴打は当たり前だった。
始末書は何枚も書いたし、松尾からは「制服着ただけのチンピラだがや」と評されてきた。
金田清治は『はみだしもん』だった。
そして今、薄い敷布団の上で横になった彼のパンツの隙間からは、局部がはみだしている。
畳に転がったトイレットペーパーをたぐり寄せ、アダルト雑誌のページをめくる。
次の休みは
清治は、合コンで女性に職業を聞かれたときは、いつも『正義のヒーロー』と答えていた。
意外と受けはよかった。酒が入っていればなんでもおもしろいのだろうと思った。
そのまま盛り上がって、適当に目が合った相手を抱いた。
行為のあと、たいていわれるのは「そういえば、正義のヒーローって結局なに?」というセリフだった。彼は毎回「ジョークに決まっとるがや」と答えていた。
ホテルのベッドの上で、人肌に触れていた自分の手を見る。
何も温度は残っていない。
——君の手、冷たすぎて嫌。
そう最中にこぼしていた女性は、隣で背を向けて横になっていた。
先ほどまでその髪が乱れていたのを思い出す。
コンロの火の揺らめきに似ていた。
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