第二章(2000年 名古屋)

(20)軍鶏



                 ※



 ノストラダムスの大予言も空しく、あれだけ人々が恐れた世紀末は、結局何も破滅に導くことなく去っていった。

 ミレミアムベイビーという言葉が生まれ、シドニー五輪では女子マラソンで日本人初の金メダリストが誕生し、有線ではhitomiの『LOVE2000』がずっと流れていた。不況は続けど、新世紀の幕開けに列島は浮かれてすらいた。


 気を抜いたときに身が震えそうな晩秋の夜だった。

 一人の若い巡査が自販機の前に立ち、制服のズボンのポケットから裸の小銭を適当に取り出す。それらを投入して、迷わず缶コーヒーの『あったか~い』と書かれたほうのボタンを押した。


「おみゃあさん、まあほんなもん飲んどるんか」


 後ろから巡査部長の松尾まつおがいってきた。

 巡査は缶を手にしつつ返す。


「冷え性だもんで。夜の巡回はえらいんですわ」

「ほれ、ちゃっちゃと飲め。続きいくぞ」

「まだ飲まんて。こいつはホッカイロがわりなんだで」


 ホットコーヒーを懐に忍ばせて、巡査は警ら用の自転車にまたがった。

 松尾と並んで静かな町の中を巡っていく。


「暇でいかんなあ」


 巡査はあくびをごまかすことなく大口を開ける。


「なんか事件でも起きやあシャキっとすんだがよぉ」

「なんちゅう発言だ。また始末書書かせたるぞ」

「冗談に決まっとりますて。まつさんはユーモアがねえでいかんわ」


 いちおうはパトロール中ということで夜道を確認していくが、人影は一つもない。善良な市民は今ごろ夜風のない部屋で眠りについているのだろう。

 巡査はホッカイロの役割を全うした缶コーヒーを取り出し、片手でプルタブを開ける。いっきに口に流し込むとげっぷが出た。

 松尾が苦い顔をしていう。


「おまえはまあどうしようもないやつだな」

「監視されとるわけじゃなしに。こんぐれえ許してもらわんとやっとれんて」

「俺がおるだろが。まったく。この勤務態度じゃあ巡査長にもなれんな。万年巡査だわ」

「かーっ。未来の警視総監捕まえて、なぁにいっとりゃあすか」

「警視総監だ? ノンキャリのジョークはおもしろいな」

「松さんもでしょうが」


 わははは、と住民の夢見を邪魔しない程度に笑い合う。

 しばらくしてダストボックスを見つけ、空き缶を放り込んだときだった。


 どこからか悲鳴が上がった。


 見れば、夜道のむこうで女性が尻もちをついている。

 その近くには、女物のバッグを手に走りだす男の影。

「ひったくり」と聞こえた。


「現行犯だっ。いったれっ」


 松尾が反応した——そのときにはもう、巡査はハンドルを大きく切っていた。


「いわれんでも、いったります」


 自転車のペダルを思いっきり踏み込む。がこんと嫌な音を立てるが関係ない。ぎいぎいと悲鳴を上げる車体に鞭打ち、巡査は逃走する男に迫っていく。


「おみゃあさん、わかっとるな!?」


 そう松尾が後ろからいってくるが、もう巡査の耳には届いていない。


「止まれっ。止まれやっ」


 巡査は声を張るが、男にはまったく聞き入れる気配がない。

 男は振り返って追いつかれると悟ったのか、曲がり角で方向転換を試みた。

 そこに巡査はドリフトをしつつ自転車から飛びついて、身体ごとぶつける。

 二人は揉み合いながらアスファルトの上を転がった。道の先で自転車と電柱が衝突する音がした。


「ふざけんなや……このクソマッポがぁ」

「止まれいうとるがぁ」


 よろめきながら同時に立ち上がる。


「こんにゃろっ」


 男が殴りかかってきた。

 巡査は対決する。

 警察学校で学んできた逮捕術——などというものはいっさい使わなかった。

 警棒も不要。

 単純によけて、単純に拳を振り抜く。

 あたかも軍鶏しゃものような激烈さ。

 拳は男の顔面にめり込み、一発で意識を吹き飛ばした。


「あちゃあ……」


 と、松尾が頭を抱える。

 巡査は地面でのびている男にむかって勝どきを上げた。



「公務執行妨害だぎゃあ!! たあけぇ!!」



 ——その年。

 西暦二〇〇〇年。

 愛知県は名古屋市。


 金田かねだ清治せいじが警察官になり、交番勤務を始めてから数年が経っていた。


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