(33)極彩色
雑多な玄関は暗く、ダイニングのほうで薄ぼんやりとした照明が灯っている。
久しぶりの塚本家は一層様変わりしていた。
浦島太郎のような気分だ。
知らない革靴。知らないゴルフクラブ。知らない髭剃り——。
知らないものが多すぎて目が回る。
家のにおいさえも思い出と違う。よそよそしい臭気だ。同棲生活が進んでいて、もはや内縁関係なのだろう。
台所ではやかんが湯気を立てていた。近くに蓋を開けたカップラーメンが用意してある。
神保はテーブルの缶ビールをあおってからいった。
「優衣ちゃん。プレゼント探すの手伝ってくれんか?」
「え?」
「いやね? 買ったはええけど、どこに置いたか忘れてしまったんだわ。僕こっち探すで、君はそっち探してくれ」
「う、うん」
神保が指差したのは優衣の部屋だった。
彼女はゆっくりと襖を開ける。
……よくわからないものだらけだった。
不在のあいだに神保の私物で埋めつくされ、どこに何があるのかの記憶がまったく役に立たない。
八歳の誕生日プレゼントのぬいぐるみもない。
ファンシーな装丁のアルバムもない。
いい匂いのする消しゴムや可愛い鉛筆キャップを集めた缶もない。
母と一緒に遊んだバドミントンのセットもフリスビーもない。
お菓子のシールがいくつも貼られた勉強机もない。
ない。
何もない——。
「……」
優衣は呆然と中に足を踏み入れる。
足元に妙な感触があった。
見れば、敷布団を踏んでいた。
やけに湿気ている。汗臭い。同じパッケージがいくつも破られて落ちている。
台所でぴぃぴぃとやかんが鳴っている。
うねるように皺の寄ったカバー。潰れた枕。ティッシュの塊。
ぴぃぴぃとやかんが鳴っている。
染み。縮れた毛。
ぴぃぴぃとやかんが鳴っている。鳴っている——。
自分の部屋だ。そのはずだ。
でも、知らない。
全部知らない。何も知らない。
——ここは誰の家?
「うっ」
思わず後ずさると——気配。
視界の後方から、情欲の極彩色が押し寄せてきた。
「——っ!?」
唐突にからだを圧迫感が襲う。
神保に背後から抱きつかれたと気づくのに時間はかからなかった。
「何すんのっ。触らんでっ」
優衣は抜け出そうと身をよじるが、のしかかる肉体が重い。
「おとなしくせんかあ。ちょっとの辛抱だがや」
「やめてっ」
だははは、と下卑た声で神保は笑った。
「いっぺん親子丼てやつを食ってみたかったんだがあ。しかも特上の名古屋コーチンときたもんだ」
脳裏にケーキを買ってきてくれるはずの母の顔が現れる。
優衣は助けを求めた。
「お母さんっ。はよきてえっ」
「玲子ちゃんは仕事の出張で長野にいっとるがや。帰ってきても明日だて」
「でもっ。さっき電話しとったじゃんっ」
「あんな芝居に引っかかるなんて可愛いやっちゃなあ。名演技だったろう。僕一人でしゃべっとんのに信じて返事しよるで、笑い嚙み殺すのがまあえらかったわ」
「……っ」
嘘だったのか。悔しくて涙が出てくる。
上着のブレザーを剥かれ、ひときわ声を上げた。
「お母さんっ。お母さんっ」
「僕はうまいんだ。任せときゃああんばようなるて」
乱暴に胸をつかまれる。太ももの内側に五指が入り込んでくる。
優衣はおぞましい感覚に声を上げながら抵抗を続けていたが、ついにキッチンで仰向けに組み伏せられてしまった。
「優衣ちゃんもかわいそうな娘だわ。どうせ玲子ちゃんが帰ってきたところでよお、助けてくれやせんのになあ」
「そんなわけにゃあわっ」
「もしかしてわかっとらんのか?
「知らんっ。そんなん知らんっ」
「こら。暴れてかん。さすがの僕も涙が出るくらいだで、慰めたろう思っとんのに」
押し返そうとする手を床につけられる。
「離せえっ」
「おてんば娘め。ようにらみつけて、興奮させよるわ」
「……っ」
「君の目がいかんのよ。アホみたいに男を掻き立ててきよる。悪魔みたいな目だがね」
神保は服を脱がそうとしてくる。
誰にも触れられたことのない場所に手が伸びてくる。
どうしてこんな男から凌辱を受けなければならないのか。なんの罰だ。いやだ。そんな道理も理由もない。怒れてしかたがない。絶対に負けたくない——。
優衣は唸る。
まとまらない思考の中で走馬灯がごとく浮かんできたのは、金田清治の顔だった。
——少し前のことだ。
彼と部屋でテレビを見ていたら、ボクシングの試合中継がやっていた。
ボクサーと警察の逮捕術のどちらが強いのか聞いてみたら、「俺の喧嘩殺法が最強に決まっとるがや。優衣もちいとは覚えといたほうがええかもな」といって人の殴り方を教えてくれた。
その記憶がよぎった瞬間だった。
酒に酔っている神保の体がふらついた。
腕が自由になるその数秒間を、優衣は見逃さなかった。
——清治!
「クソたあけえっ!」
これまで出したことのない力で上体を捻転させ、小さな拳を思いっきり繰り出す。
火事場の馬鹿力だ。鼻をとらえた一撃は神保をのけ反らせた。
そしてそのまま彼がキッチンのコンロにぶつかると、沸騰したやかんがひっくり返って落ちてくる。
神保は頭から熱湯をかぶり、獣のごとく叫んだ。
「ぐおおおおおおっ!」
優衣も無事ではなかった。
「ああああああっ!」
首に激痛が弾けて悲鳴を上げる。
あまりの熱さに皮膚が張り裂けそうだった。異常な汗が吹いて出てくる。
それでも、うずくまりかけるのを必死に堪えて神保の下から這い出る。
「みずっ。みずぅっ」
ばたばたと蛇口をひねり、シンクに頭を突っ込む神保。
逃げるのならこのチャンスしかなかった。
視界は涙で溺れ、痛覚が暴れ回る。だが、今はこの男から一秒でも早く離れなければ。
玄関まで走って、靴も履かずにドアを押し開ける。
外はもう真っ暗だ。曇天が泣き出していた。
「うあっ。はあっ。ふあっ。ああっ。あああっ」
めちゃくちゃな呼吸のまま、優衣は転がるように『知らない家』から走り去った。
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