(8)2020:採用面接 ②
ランチ休憩の時間に入り、飯島が席を立ったときだった。
宮木夏菜子と横溝麻里がオフィスフロアに戻ってきた。
そして彼の姿を認めるや、宮木が指差していった。
「あ、圧迫面接官がいるっすよ」
「本当ね。怖いから近寄らないようにしましょう」
そう、横溝がしらけた顔でつづける。
「なんだ、おまえたち」
宮木が両手で制してくる。
「ストップ、ストップ。それ以上は立ち入り禁止っす」
「……仮にも上司いじめて何が楽しいんだ」
律儀に止まってしまう飯島に、横溝はいった。
「いじめたのはそっちじゃないの?」
「なに?」
「さっき宮木と廊下を歩いていたら、すれ違った子がいたんだけどね、泣きそうな顔で走っていったのよ。あの格好からして面接にきた子でしょう? だいぶ殴られた感じがしたわ」
黒瀬楯のことだろう。
「立花部長はそんなことしないし、ほかの上の人だってそうだから……飯島くんがやったんだろうって宮木と話してたの」
「そんなことは」
ないとはとてもいえない。胸に刺さったままの針が押し込まれた気がした。
「主任のこと、悪い人じゃないと思ってたんすけどね」
「……悪かったな。期待に添えなくて」
飯島はそう吐き捨てて、フロアを出ていった。
意識もしていないのに大股になる。
オフィス棟から出ると、真夏の太陽が一瞬だけ視界を白く染めた。ひどくまぶしい。どこか敷地内の樹木にしがみついているのか、蝉が鳴いていた。
熱気の中、ガテマラにむけて歩いていく。
すると——オフィスビルのエントランスに続く階段の隅に、とある人影を見つけた。
紫がかった黒髪の女子就活生。
バッグと脱いだジャケットを横に放り、うなだれるように座り込んでいる。周囲にベンチ等がないとはいえ、地べたなので行儀が悪い。擦れた雰囲気もあいまって、そのまま煙草でも吹かしはじめそうだった。通行人がちらちらと彼女を見ていく。
飯島はその姿を見つめたあと、歩いていって黒瀬楯に声をかけた。
「……君、そんなところで座らないでもいいだろう」
「あ? ああ、サーセン」
ビルの警備員に咎められたと思ったのだろう。顔を上げてから飯島だということを認識して、彼女ははっと驚いた表情で見てきた。うっすらと夏の汗をかいている。もしかしたら、ずっとここで背中を丸めていたのかもしれない。
「今日は暑い。倒れるまえに日陰を探したほうがいいんじゃないか」
「……ですね」
そう答えながらも動く気配はない。
少しして、黒瀬楯はぽつりといった。
「あの、面接のときはスミマセンでした。バカっていって」
「……いや、俺のほうこそ悪かった。言葉が強すぎた」
「ふだんは俺っていうんですね」
くすっと笑った。新たなパズルのピースを見つけたときみたいだった。
飯島には、彼女がどうしてこんな顔をするのかわからなかった。
「許さないっていったらどうするんですか?」
「どうしようか……」
「じゃあ、お詫びに私と少し話してください」
沈黙のあと、飯島は受け入れる意思表示で黒瀬楯の横に座った。行儀の悪い人間の仲間入りをしてしまったが、不思議と人々の視線は気にならなかった。
彼女はまたぽつりといった。
「私……黒瀬楯っていいます」
「さっき面接で聞いたよ」
「知らないですか。私のこと」
「ああ……」
記憶をたどったが、何も有用な情報は出てこなかった。
ただ唯一、思い当たるといえば当たる節があったので答えた。
「学生インターンできていなかったか?」
「はい。きてました」
正解だったみたいだ。
ベル・エ・ブランシュでは、短期間ではあるものの、過去にインターンシップとして何人か学生を受け入れていた時期があったはずだ。飯島自身は多忙だったため関わりはなかったが、どこかですれ違っていたのかもしれない。
しかしすると、その答えを最後に黒瀬楯は黙ってしまった。
静かな間が生まれる。
——黒瀬楯っていいます。
その名前を思って、飯島は口を開いた。
「
「……変な名前ですよね。子どものころはイヤでした。可愛くないし」
「いや、いい名前だよ」
何かを考えることはしなかった。
履歴書で初めて目にしたときに感じたことが、こぼれ出ていた。
「美しい名前だ」
楯。
盾。矢や槍から防ぎ守る。矛と対をなす存在。
「名付けは君の親御さんか?」
「はい。おと……父がつけました」
「君の将来のことを考えて、つけてくれたのかもな」
意味をつかみかねている彼女に、飯島はつづける。
「これから君がもっと大人になるにつれて、誰かや何かを攻撃することなんてなくなる。みんなそうだ。人は守るものばかりが増えていく。二本の腕では持ちきれないくらいに。そのたびにきっと、君の名前は強く意味を持ちつづける。生涯誇っていい。そんな名前だ」
すると黒瀬楯は顔を伏せて、聞こえないくらいの小さな声で何かをこぼした。その肩の震えは、夏の気温には似つかわしくなかった。
彼女は沈黙を経て顔を上げると、飯島を見つめてきていった。
「飯島さん。付き合ってくれてありがとうございました」
「もういいのか」
「はい」
黒瀬楯はぱっと立ち上がった。階段に下ろしていた尻を払い、遠くを振り返る。
その先には、ベル・エ・ブランシュのチャペルがそびえ立っていた。カリヨンの鐘が日差しを弾いてきらめいている。
それをまぶしそうに手をかざして眺めながら、彼女は笑っていた。
「あーあ。あの鐘を毎日見てたかったな」
その言葉は、すでに選考に落選したことを悟っている。
きれいな受け答えができずに、しまいには面接官に暴言を吐いてしまった就活生——そんなものが合格するはずがないと。
「今日はありがとうございました。さよなら」
黒瀬楯は頭を下げ、立ち去ろうとする。
これからどこにいこうというのか——。
「——どこにいこうってんだよ」
不穏な声が聞こえたのはそのときだった。
見れば、少し離れたところに、近隣の私立中学校の制服を着た女生徒が四人いた。
三人が一人を囲んでいる構図だ。夏休みの登校日だろうが、なかよく遊びに出かけているふうには見えない。
「わ、わたしはお家に帰るって……」
建物の塀を背に、囲まれた少女がいう。気弱そうな風貌だ。
「あんたはうちらの財布だっていってんじゃん」
「財布持たずに遊びにいくやつがいるわけねーだろ、バカ」
「どうせ持ってんでしょ。はやくついてきなよ」
どうやら
少女たちはそれなりに目立っているが、通行人は見て見ぬふりだ。年々トラブルに首を突っ込むことのリスクが肥大化し、同時に人々の心から余裕が失われつつある、この国らしい光景だった。
すると「聞いてんのかよ」と、一人が気弱そうな少女の頭をはたいた。
——チッ。
大きな舌打ちが聞こえた。
黒瀬楯だった。
先ほどの笑顔からは想像もつかないような、冷え込んだ目でにらんでいる。
そして、ブラウスの袖をまくり上げながら、ずかずかと少女たちへ進んでいった。身長があるせいで、下手な男性よりも迫力がある。
思わず飯島は声をかけた。
「待ちなさい。何をするんだ」
「飯島さんはランチにいってください。まだ食べてないですよね」
振り返らずにいう。芯の通った声だった。
「それはそうだが……」と戸惑いながらも、飯島は彼女の荷物を拾って追っていく。
黒瀬楯は、ドスのきいた声で少女らに絡んでいった。
「オイ、中坊」
少女たちは彼女をねめ上げる。
「なんだよ」
「さっきからキィキィうっせーんだよ。黙れっつーの」
「てめーが黙れよ、ババア」
スーツ姿というだけでそこまでいうのか、と飯島は思った。
気の強そうな一人が放った言葉だった。
その挑発的な態度は、相手が社会人であるがゆえに下手な真似はできないだろうと踏んでいるからこそ、見せられるのかもしれない。
黒瀬楯は全員を見下ろして、凶悪な大蛇のごとく威嚇する。
「ガキがイキってんじゃねーよ」
「そのガキ相手にイキってんのキモくねえ?」
「あー? オイ、やんの?」
「え? 何やんの? やってみろよ——」
どん、と黒瀬楯が少女の肩を突き飛ばした。
片手とはいえ細腕とはいいがたい。少女は腰を地面にしたたかに打ちつける。予想外の暴力と現実的な痛みに、さっと彼女の目の色が変わった——怯えだ。
しかし。
「やってっけど?」
黒瀬楯はそんなものおかまいなしに髪をつかもうとする。
すんでのところで、一人が割って入った。
「や、やめてください」
強請られていた少女だった。
涙ぐみながらも、手を広げて黒瀬楯をしっかりとにらみつけている。
「何? テメー」
「……この子の友だちです」
きっと元はそうだったのだろう。
たとえば、借りたもの返却しなくても何もいわれなかった。たとえば、ふいにいった陰口が枝葉を伸ばした。そんな些細なきっかけで、いつからか関係が歪んでしまっていた。
修復は簡単ではない。
しかし今このとき、友だちという単語に残りの三人が喉を詰まらせる気配があった。
「そんなの知らねーよ。鈍くせーツラしてさあ」
黒瀬楯が少女を押しのける。
その子を助けるんじゃなかったのか、と飯島が思った次の瞬間だった。
「やめてくださいっ」
少女が彼女を両手で押した。
それは、胸のふくらみに触れたというほうが正しいぐらいの弱々しさだったが、黒瀬楯は塀に叩きつけられた——そんな演技をした。
「ってーなぁ! ブッ殺すぞ!」
怒号に吹き飛ばされるように、気弱そうな少女を除いて三人が逃げだす。
その中の一人、気の強そうな少女が起き上がりつつ、身のすくんでしまった彼女に手を伸ばした。
「つかんで! いくよ!」
「ま、まって!」
気弱そうな子は、その手をとって走っていってしまった。
小さくなっていく集団からは「マジでヤバすぎ」だとか「デカ女突き飛ばすとかやるじゃん」といった声が聞こえる。
急転直下の展開に、静寂だけが残った。どこからかクラクションが響く。
通行人は、黒瀬楯をならず者でも見るような目で見ていた。
いつのまにかこの場面の悪役は、強請りをする女子中学生から、年下に暴力を振るう柄の悪い女に移り変わっていた。
飯島は後ろから声をかけた。
「黒瀬さん」
「はああっ」
彼女は妙な声を出して振り向く。裸を見られたみたいな反応だった。
「は? なんで? ランチ食べにいってっていいましたよね?」
「放っておけるわけないだろう」
「あー、ヤバ。マズいところ見られちゃった」
気がつけば、黒瀬楯から凶悪な大蛇めいた雰囲気は失せていた。
取り繕うみたいに髪や服を整え、少しだけ上目で見てくる。
「これ、リアルにお願いなんですけど……今の忘れてくれませんかね?」
それには返さず、飯島は荷物を渡しつつ語りかけた。
「君はすごいな」
「何がですか」
「とぼけなくていい。今のは全部演技だったんだろう?」
「いえ」
特に答えなかった。かわりに懐かしげな目をしていった。
「私って、昔からちょっとガキ大将みたいなところがあって、ああいうの嫌いなんです」
黒瀬楯がそのとおり考えていたかは不明だが、自身という共通の敵を作り出して少女たちに立ち向かわせるというのは、単純に一方を
荷物を抱えながら、黒瀬楯は気まずさをにじませて笑った。
「ゴメンなさい。私って根が荒いから。せっかく飯島さんに名前を褒めてもらったのに、さっそく中学生どついちゃいました。盾どころか矛じゃねーかってゆう」
——違う。君はまさしく
そう伝えたかった言葉は、しかし飯島の口から出てくることはなかった。
どうしてだろう。瞳の中に彼女を映すことを、なによりも優先してしまっていた。
「今度こそお別れですね。さよなら。今からでもちゃんとごはん食べてください」
会釈をして去っていく黒瀬楯。
その背中にむかって、飯島は口の中だけでつぶやいた。
「昼飯なんか、どうでもいいよ」
ベル・エ・ブランシュへ
出ていくときよりも大股で歩く。
オフィス棟に乗り込み、休憩室でランチを食べていた立花にむかって告げた。
「部長。採用面接の件ですが——……」
——人の愛を美しいと思う心だって?
そんなもの、一番大切に決まっている。
※
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