(49)問い



「おまえはここで待っていろ」


 金田は灰色の野良猫を地面に置く。頭から尾まで撫で下ろしてやると、猫は返事をして香箱座りをした。

 横溝という女を見る。

 身長から考えれば、段ボール箱はそこまで大きくはない。

 しかし、彼女は変化の乏しい表情の中に辛そうな色を浮かべていた。

 それもそのはずで、運搬作業をする際の正しい姿勢をとっていないのだ。とある部分に圧力がかからないようにしているから、よそに無駄な負荷がいく。きっかけしだいでは腰を悪くしてしまうかもしれない。

 一つ運び入れて戻ってきた横溝は、手を伸ばした荷室の箱にすでに男の手が置いてあるのを目にして、ようやく金田の存在を認識したみたいだった。


「っ……あ、あなた。どうしてこんなところにいるの」


 横溝は身を守るように——とある部分をかばうように後ずさる。

 対して、金田はポケットから飯島康人の名刺を取り出してひらつかせた。


「心配するな。危害は加えない。俺は飯島の客人だ。……それとも、やつのお墨付きが信用ならないか」


 横溝は肘を抱えて押し黙った。否定しない程度には、あの男は慕われているようだ。


「無理な姿勢で運んでいるな。怪我をする。理由はなんだ」

「……関係ないでしょう。申し訳ないけど、帰ってください」

「身重だろう」


 彼女は一瞬息を詰まらせ、視線を落として下腹部に手を当てた。


「やはりそうか。めでたいな。飯島たちにはいったのか」

「……いいえ、まだよ。ポニーテールの子がいたでしょう。あの子には伝えてあるわ」


 ——横溝麻里につわりが訪れたのは、先日のことだ。

 夫と夕食を食べているときに、急激な吐き気を催してトイレで戻してしまった。

「麻里ちゃん!? 救急車! 救急車!」と色黒の筋骨隆々とした肉体を右往左往させる夫を制しながら、彼女は予感に震えていた。

 その後の妊娠検査薬で陽性の線が出た。産婦人科でも身籠っていることが告げられた。

 予定はしていたし、夫婦の営みの中で望んでいたことだった。

 夫は大喜びで抱きしめてきたが、彼女は何も反応ができなかった。彼の締めつけが強かったからではなく、命を授かった感動が溢れて動けなかったのだ。


「おなかの存在を意識しすぎてしまって、変な姿勢で運んでいたことは認めるわ。でも……それだけでよく私が妊娠しているとわかったわね」

「見覚えがあっただけだ。腹を大事にする姿に」

「それって——……」


 横溝は口を開いたが、胸に塊が詰まって言葉が出てこなかった。

 軽々と箱を持ち上げて金田は聞いてくる。


「手伝う。指示しろ」

「どうして、そんなこと」

「名古屋の男は身重の女を放っておかない」


 横溝は黒い目を見返した。手伝うという言葉以外の意図は読みとれなかった。


「……なら、そこのエリアにお願い」

「わかった」


 短く応え、金田は運び込みはじめる。

 彼のスカジャンの背中に『名古屋』と刺繍してあるのが目に入り、なるほどたしかに名古屋の男だと思った。

 横溝もまた作業に取りかかろうとする。だが、「おまえが動いてどうする」と箱を奪われてしまい、結局黙々と運搬作業をする男を眺めるだけになった。

 彼女が口を開いたのは少ししたあとだった。


「……一つ聞いてもいいかしら」

「なんだ」

「あなたは奥さんを愛していたの?」

「ああ。妻は俺のすべてだ」


 即答だった。動作に鈍りも見られない。

 横溝は、金田の左手の薬指で結婚指輪が光っていることに気づいていた。

 同じように自分も夫への誓いを指にはめている。

 その輝きの意味は万人に共通のはずだ。

 殺人犯というまるで違う生き物のように感じていたが、持ちうる感情は人々と変わらないのかもしれない。自分と同じ人間なのかもしれない——。

 あの長身の後輩ほど警戒を解く気はないけれど、『名古屋ヤング夫妻事件』の全容を知っていればこそ、そう思ってしまう。

 事件における金田清治の罪。

 たとえば夫が殺されて、もしくは自分が殺されて。自分は、夫はどうするのだろう。どうなるのだろう。何になるのだろう。そしてそのあとは——。


「……もう一つ聞いてもいいかしら」


 今度は返事をされなかった。横溝は続けて尋ねようとして、かぶりを振った。


「いえ……なんでもないわ」


 聞けなかった。聞けるわけがなかった。


 その『すべて』を失って、何のために生きているの? ——とは。


「これで終いか」


 陰りかけた思考を金田の声に引き戻された。顔を上げると、商用バンの中は空になっており、指定した場所に荷が整頓され積まれている。


「あ、ありがとう」


 横溝は反射的に返していた。

 対して金田は口髭を動かしただけだった。どうやら笑んだらしい。


 すると、甘ったるい声がした。


「あれぇ? 横溝さぁん、その方どなたですかぁ?」


 見れば、チャペルの建屋内から赤星朋美が怪訝そうな顔で二人を見ていた。


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