(34)リノリウムの雫



 当直勤務は何事もなく終わった。昨晩の雨も止んでいる。

 あくびも寒さに引っ込む帰り道。

 金田清治はフタバ荘が面している道に入る。


「……ああん?」


 妙な様子だった。

 通行人がフタバ荘のほうを見ながら、ひそひそと話している。

 築年数は長けれど、ぎょっとするような佇まいではないはずだが……まさか洗濯機にいたずらでもされたのだろうか。

 そう思って敷地に急いで入り——彼は目を疑った。


 一号室のドアに背を預け、少女がうずくまっていた。


「優衣っ。何しとんだ、おまえっ」


 清治はすぐさま駆け寄り、膝をつく。

 顔を上げた優衣の目は充血がひどかった。涙の痕が頬に刻まれている。

 かたかたと震える肩。ブレザーは着ておらず、濡れたシャツ一枚だ。

 靴すら履いていない。ハイソックスは冷たい泥に塗れていた。

 明らかにおかしい。

 いったいどれほどの時間、彼女はこの寒さの中で丸まっていたのだろう——。


「学校はどうした。なんでこんな格好しとる」

「……ね、清治」

「なにい」

「あたしの、どうなっとる……?」


 優衣は首の左側を見せてくる。

 大きく広がる見たことのない容態の水ぶくれに、清治は絶句してしまった。


「……っ」

「なんかね、感覚おかしいじゃんね。こわくて、見れんかった」

「えらい火傷だがや。はよ医者に見せんと」


 清治は優衣を立たせようとするが、弱り果てた身体はふらつくばかりだ。


「……クソたあけがっ」


 清治は優衣を抱えて走りだした。

 そう遠くない場所に、救急窓口のある病院があるはずだ。

 そこに駆け込むしかない。


「どけえ! どけてえ! どけいうとるがあ!」


 何事かと目を向けてくる人々を掻き分け、叫びながら走りつづける。

 ときおり優衣の様子を見た。

 猫みたいな女だと思っていた。

 本物の猫みたいな軽さが悲しかった。






 たどり着いた病院で清治は叫び散らした。


「急患だぎゃあ! 誰でもええ! はよ出ろやボケェ!」


 職員があわてて顔を出してくる。


「待って。待ってください。今呼びます」


 やってきたのは男性医師だった。

 彼は優衣の首を診たときに眉間を狭めた。

 処置が終わったあと、熱傷の度数がどうとか色々と説明をされた。

 しかし、清治は用語の痛々しさしか理解できなかった。


「何をごちゃごちゃいっとんだ。はよ直せや。このへぼ医者が」


 そう八つ当たりすると、嫌そうな目でいい返された


「ろくに患部を冷やしもしんで……お兄さんこそ何しとったんですか」


 のんきに当直していた自分が思い出される。

 清治は何もいい返せなかった。

 最後に、対処が遅れたせいで痕が残る可能性があるとも医師はいった。







 治療費を支払い、清治は待合室に足を運ぶ。

 とても静かだった。

 首に包帯を巻き、左のフェイスラインにガーゼを当てた優衣が長椅子に座っていた。点滴を打ったおかげで顔色はましになったものの、リノリウムの床を眺めるまなざしは虚ろだ。

 清治は隣に腰を下ろして聞いた。


「何があった。優衣。話してくれんか」

「……お母さんに会いにいった」


 そうゆっくりと口を開き、彼女は塚本家であったことを打ち明けた。

 清治はただ黙って聞いていた。握り締めた拳が割れそうだった。


「……俺は何しとったんだ。おまえを助けられんで」

「ううん。清治は助けてくれたよ」


 優衣はそっと見てきていった。


「清治がパンチのしかたを教えてくれたもんで、逃げられたじゃんね。ありがとね」

「いわんでくれ。俺はなんもできとらん。もっとはよ病院に連れていくことだて、一晩中おまえをさぶい中ほっぽかさんでおくことだてできたはずだがや」


 いってから、清治はふと思い至って尋ねた。


「優衣。ほういやあアパートの合鍵はどうした。あんなとこで待っとらんでも、中に入りゃあちょっとは……」

「神保に脱がされたブレザーん中入っとった。だもんで、今はあの家にあると思う」

「ほんじゃ交番にこやよかった。俺がおったかもしれん。ほれか、おらんでもどっかの家に駆け込みゃあ——」


「——なんもわからんかったっ!」


 優衣の声が院内を走った。わずかな残響。


「頭ん中ぐちゃぐちゃになって、そんなの考えられんかったっ。ただあんたの顔が浮かんで、あんたんとこにいかなかんて思ったっ。あの部屋におりゃあ、あたしは絶対に大丈夫だて思ったもんでっ。交番なんか知らんっ。離れられんかったじゃんっ。離さんかったんはあんたじゃんっ。たあけなのはわかっとるよっ。でも、できんかったじゃんね……っ」

「優衣……」


 すると、優衣はひくりと喉を震わせた。


「清治……あたし、まあ、いかん」


 いいながら声は涙に濡れていく。


「神保はこわかったよ。お湯だって熱くて痛かったよ。こんなふうになって、なんもかんも辛いじゃんね……——でもっ!」

「……」

「でも、それよか悲しいのはこと……!」

 

 嗚咽でとぎれそうになるのを必死に堪えて声を出す。


「あの家に、あたしのもんはなんもなかった。お母さんに全部捨てられとった。あたしがあそこで暮らしとったこと、生きてきたこと……思い出も何もかも、教えてくれるもんは一個もなくなっとった」

「……」

「あたしはおらんの? あの家に。お母さんの中に。もう、おらんの?」


 清治は何も答えられなかった。


「ねえ……清治。あたしもうなんもないよ。なんも持っとらん。どこに帰りゃあええの? 家はどこなん? 帰りたいよ……帰らしてよ……」


 ああああああ。ああああああ。


 何かがぽっきりと折れたみたいだった。

 大粒の涙を落としながら、優衣は泣いていた。


 職員や入院患者が様々な面持ちで二人を見ていた。


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