(3)2021:ヘアセット
自分の代金は支払うという黒瀬を外に追い出し、飯島は二人分の勘定を済ませてガテマラを出た。秋口といえども、正午の日差しはまだ夏の匂いを残している。
軒下の日陰で、黒瀬は若干気まずそうに笑っていた。
「ゴチさまです。そんなつもりじゃなかったんですけど」
「俺はそのつもりだった」
飯島は表通りにむけて歩きだした。談笑とともに歩いてくるサラリーマンの団体を眺めながらいう。
「ランチタイムになると、おまえたちはみんな連れ立って出ていってしまうだろ。そうすれば、俺はいつも一人だ」
「ま、そうですね」
「たまには後輩に飯でも奢って、上司としてのプライドを保ちたくなるんだよ。俺の自己満足に付き合わせて悪かったな」
特別に敬意も興味もほしいとは思わないが、ある種の寂しさめいたものがないとはいいきれなかった。「は? ダッサ」と隣から聞こえた気がしたが、あくまで気がしたにすぎないので、頭の中から排除しておくことにする。
すると、黒瀬が飯島の肩をついついと指で突っついてきた。
「あー、てゆうことは? 実は私にランチ誘われたとき、メチャクチャ嬉しかったってことですか?」
「ずいぶんと都合のいい解釈だな」
隙を見せてしまったことを後悔しても、もう遅かった。
彼女は無視してつづける。
「しょうがないですね、主任は。これからは、プライドを満たしたくなったらいつでも私を使っていいですよ。主任のためにいくらでも奢られてやります」
「いつもどおりでいいとはいったが、調子に乗れとはいってないぞ」
「次は駅前のほうでどうですか? 私お店探しておきますよ」
「話聞けよ」
げんなりした様子で飯島はつぶやいた——けれど、ふだんの黒瀬が戻ってきたことには、素直にほっとしていた。このままウェンディの取材も乗り切ってくれたらいいのだが、と考えていると、彼女が顔をじっと見てきていった。
「主任。なんかヘアセット乱れてないですか?」
「そうか? いつもどおり整えているけどな」
「このままだと、イケてない写真でインタビュー載っちゃいますよ?」
そう小ばかにしてから、思いついたふうに聞いてきた。
「そうだ。ワックスとかって持ってます?」
「あ? ああ。オフィスのロッカーに備えてあるが」
「貸してください。私がイイ感じにセットしますよ」
不敵な笑みは自信の表れだろうか。黒瀬は胸に手を置いていった。
飯島は身を引いて答える。
「なんだそれ。おまえまさか、このまえのヘアサロンの話を根に持っているんじゃないだろうな。髪が乱れているっていうなら自分で整え直すから、変なことしなくていい」
「これにはちゃんと理由があるんですって」
「そんな大層なものあるか。
「いいですか? 考えてみてください。ウェンディの読者層はほぼ百で女子ですよ。女子ウケのいいビジュアルにすることで、このあとのインタビューの内容に説得力が増すんです。逆に、ダサい見た目で何いわれたって、一ミリも心に響きません。女子ウケなんて主任にはよくわかんないっしょ。私はわかりますけど。女子なんで」
「ううむ……たしかに、商談の場で印象の隙間をプラスに埋めてくれるのは、そういう要素だったりする」
「そうしてバズッた記事がお客さんを呼んで、ベル・エ・ブランシュの宣伝は大成功。夏菜子先輩も麻里さんも、主任のこと見直してくれると思いますよ。ワンチャン、ランチに誘われちゃうかも」
へらへらと笑って黒瀬はいう。
首の後ろをさすりつつ、飯島は顔をそらした。
「さっきのは口が滑っただけだ。忘れてくれ」
「イヤです。忘れません」
黒瀬は顔を覗き込んできて、薄く笑った。
「とにかく、女子目線は大切なんです。主任」
根負けしたというか、うまくいいくるめられた気持ちがあった。
飯島は息をついて返した。
「……わかった、勝手にしろ」
「りょーかい。そうと決まれば、はやく戻ってキメちゃいましょう」
「おい、待ってくれ」
腕をつかまれ、歩みを早められる。
帰ってきたオフィスには、横溝などのメンバーはまだいなかった。
飯島はロッカーから取り出した整髪料を黒瀬に手渡してやる。
「これでいいか?」
「あざーす。じゃ、こっちにきてください」
ヘアセッティングは、給湯室の横にある鏡の前で行われた。
飯島はオフィスチェアーに腰を下ろし、その後ろに黒瀬が立つ。明かりをつければ、さながらシンプルなヘアサロンに思えなくもない。
薄手のカーディガンの袖をまくり、黒瀬は飯島の髪質を確認する。
「どんなふうにいこうかなー」
「黒瀬はこういう人のヘアセットはよくするのか?」
「んー、さっきいってたオタクの姉にやってあげるくらいですかね」
「姉妹とは仲が良いんだな」
「仲良いほうとは思いますけど……どっちかってゆうと、私が触りたいから触ってるってカンジかな」
「ふうん」
そう返すと、鏡越しに黒瀬と目が合った。
彼女はいたずらっぽくいってきた。
「なんてゆーか、ペットいじって遊びたい的な?」
「俺は人間なんだが」
「主任は断然、犬ですよね。ジャーマンシェパードっぽいかな」
「そうかい。ブルドッグじゃなくてよかった」
「えー? あの子も可愛くないですか?」
黒瀬は笑いつつ、整髪料を手に乗せて髪に馴染ませていく。
このまま目を開けていても、視線が合うたびにいじられそうな気がしたので、飯島は鼻を鳴らして目蓋を下ろした。すると、思ったより黒瀬の手つきが心地いいのと、食後というタイミングもあってか、しだいに意識が薄れてくる。
ついうとうととしかけたときだった。
「——あ、ハゲ」
「どこだ」
即座に覚醒する。
黒瀬はすこぶる楽しそうに耳元でささやいてきた。
「あは。ウソですよ。なんか気持ちよさそうにしてたから、イジワルしたくなっただけです」
「くそ……」
セット中のため、情けなさにうなだれることもできない。
結局、目を開けることにしていると、どうやら完成に至ったようだった。
飯島はあらためて鏡と向き合う。ふだんは七三分けで下ろしている髪が、引き締まった印象でバックに流されていた。顔は自分のものなのに、別人みたいに思える。まるで海外のショーで見るマジシャンのようだった。
黒瀬は、給湯室のシンクで手を洗いつつ語る。
「主任はいつもの感じも悪くないですけど、ちょっと雰囲気が弱いかなって思ってて。だから、今回はオーラが出るようにまとめてみました」
「ああ。すごいな、黒瀬は」
飯島は鏡を見ながら顔の角度を変えてみる。
再び鏡越しに黒瀬と目が合った。
「似合ってますよ」
笑いかけてくる表情は、いつになく優しいものに思えた。感謝を述べようと開いたはずの口は、しかしどうして、彼女を見たまま動かなかった。
するとそうしているうちに、廊下から声が聞こえてくる。
どうやら宮木や横溝が戻ってきたらしい。
「——おおっ? ええ? あれれ? 主任? どうしちゃったんすか、その頭」
フロアに入って飯島の姿を認めるやいなや、宮木が茶髪のポニーテールを揺らして近寄ってきた。確実におもしろがっているのがわかる顔である。
「飯島くん。いくら取材だからって、気合入りすぎじゃないかしら」
横溝が、片手で口元を隠しながらいった。いつもの淡泊な表情と抑揚のない声色だが、どこか笑いを堪えているように感じる。
「すこーしわたしの趣味に近くなったっすかね」
宮木が周囲を回りながら見てくる。横溝は指でフレームを作って当ててきた。
「顔立ちは合っていると思う。色黒だともっとハマるかもね」
「ああー。麻里さんの旦那さん、オラオラ系っすもんね」
「見た目だけはね。仕事でこき使われて、昨日も泣きついてきたのよ、彼」
「旦那さん、なんのお仕事してるんでしたっけ——」
「あのな、おまえたち……」
声をかけるも、飯島を置いて話が脱線していく二人。
これは自分でやったのではなく、黒瀬に整えてもらったことを説明しそびれてしまった。
当の黒瀬を見やる。むっとしているふうに見えたので、飯島は小声でフォローを入れておくことした。
「あいつらは、べつに黒瀬のセットを笑っているわけじゃないんだ。俺が慣れないことしていると思って、おもしろがっているだけだろう」
「わかってます。主任が悪いんですよ。ふだんからラフに絡んでもラクショーって雰囲気してるから」
それを一番利用しているのはおまえだろうと思った飯島だったが、なぜだか不機嫌さの増した黒瀬の目つきを見て、口にするのは控えておいた。
視線を逃がす先を探しはじめたところで、ちょうど部長の立花もまたフロアに戻ってくる。
彼女は宮木や横溝と同じようなリアクションをした。
「あらあらあら、飯島くんったらばっちりめかし込んできて」
この職場の女性陣は、男の見た目のあれこれを構うのが好きらしい。もっとも、立花の反応は母親に通じるものだったが。
「その様子だと、やる気はなくしていないみたいで安心したわ。当日ドタキャンするなんていいだしたら、どうしようかと思っていたの」
「さすがにそれはしないですよ」
「本当、受けてくれて助かるわ」
立花は後ろをちらりと見てつづけた。
「それでね、ちょうどそこで会った
赤星とは誰だったろうか。そう思って、飯島は立花の陰から現れた女子社員の社員証をそれとなく見てみる。
そういえば、ベル・エ・ブランシュのSNSアカウントは現在彼女が運用していて、フォロワーの伸びもよく、好評だという話を聞いたことがあった。
「飯島さぁん、今回はありがとうございますぅ」
赤星は甘ったるい声で頭を下げてくる。あざとさが散りばめられたしぐさだった。ヘアアイロンで巻かれた茶髪と、くりくりと丸い目を見て、記憶が呼び起こされる。数年前の入社式で見た顔だ。今は若手のホープといったところだろう。
「私たちとしてもぉ、宣伝のビッグチャンスなので期待してますぅ」
「ははは、変なこといわないようにしておくよ」
「飯島さんなら大丈夫ですよぉ。きちんとされてますからぁ」
「それならいいんだけどね」
「私の保証付きですぅ。ハンコ押しとこぉ」
赤星は、印象付けるように飯島の胸に触れる。それからまじまじと顔を見ていった。
「それにしてもびっくりしましたぁ。髪を上げられると、だいぶ印象が違うんですねぇ。ご自分でやられたんですかぁ? かっこいい~」
「いや、これは——」
セットした張本人である黒瀬を紹介しようと、半身を引く。しかし、それより早くずいっと彼女が前に出た。飯島は戸惑いつつも言葉を繋げた。
「彼女……黒瀬にやってもらったんだ」
「おつかれさまです、赤星先輩」
「……へぇ?」
今気づいたというふうに、赤星の目が黒瀬に向いた。視線を上下に
対する黒瀬のまなざしからは、よく見る小生意気な感じが抜けていた。どこか冷徹とすら感じる。
黒瀬のほうがずっと背が高く、からだつきもいい。黙って見つめ合うと、どちらが年上かわからない。
口を開いたのは赤星だった。
「課が違うから、今まであんまり絡めてなかったけどぉ……黒瀬ちゃんって器用なんだぁ? いつもは彼氏にやってあげてたりするのぉ?」
「いえ、今はいなくて」
「え、意外! 経験たくさんありそうなのにぃ」
赤星はわざとらしく口に手を当てる。言外に「遊んでいそう」ということかもしれない。
目以外で笑みをつくって、黒瀬は返した。
「そんなことないですよ。たぶん先輩のほうがモテると思います」
「え、謙遜? そういうのわたし全然いらないから大丈夫だよぉ」
「そうですか。よかった。私もホントはそういうの苦手なんです」
「おい、黒瀬」
飯島はいつもより声を大きくして呼んだ。忍び寄る不穏な空気を払うつもりだった。
黒瀬はツンとした顔で振り返る。
「はい、主任」
「ウェンディのアポイントは何時からだった?」
「十四時からですけど。主役が忘れるとか何してんですか」
「ああ、悪い。そうだったな」
本当は約束の時間など把握している。飯島は思いつくままに並べ立てた。
「赤星さん。すまないが、そろそろ黒瀬を返してもらっていいかな。時間までに相談したいことがあるんだ」
「そうね。女子トークはそれくらいにして、それぞれ午後の仕事に戻りましょう」
場の流れを見ていた立花が、ぱんぱんと手を叩いて、スイッチを切り替えさせる。彼女はこういう音頭をとるのがうまい。
業務を再開する宮木や横溝の流れに乗せて、飯島はむすっとした黒瀬をデスクに戻す。
自身も仕事を再開しようとしたときだった。
赤星が引き止めていってきた。
「あ、そうだ。飯島さぁん。今度あらためて取材のお礼をさせてくださぁい。ごはんにいきましょう」
そして、返事も待たずに宣伝課のほうへと消えていってしまった。
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