(4)隣人と朝

 


 目覚まし時計のアラームを切った。

 そのまま時間を確認する。二〇二一年九月十三日。朝の六時半だ。

 飯島は喉の渇きを覚えながら、ベッドから身を起こした。湿った肌が熱を脱いでいく感覚がある。

 横を見れば、チューハイの空き缶が丸テーブルの上に転がっている。小さな頭痛を連れて、キッチンへとまだ意識の行き渡らない足を運ぶ。冷蔵庫から天然水を取り出して喉に流し込むと、冷たさのおかげでいくぶんか頭がクリアになった。

 朝食は手短に。身支度には時間をかけて。

 スーツに着替え、アパートの部屋を出る。

 共同廊下の先、階段を上ってくるジャージ姿の女性が見えた。

 飯島は軽く頭を下げてあいさつをする。


「おはようございます」

「おはよう、飯島」


 彼女はさいという隣人だった。

 イントネーションに絶妙な違和感があるが、はきはきとした声だ。


「今日も朝からウォーキングですか。元気の秘訣を教えてもらいたいものです」

「簡単だよ。飯島も同じことすればいいだけ。明日どう? 一緒に歩くかい?」

「いや、最近仕事が忙しくて。誘ってもらってありがたいですけど、なかなか今はそういうチャレンジができそうにないです」

「私よりずっと若いのに、なにひ弱なこといっている」


 蔡はそうあきれてから、すぐに笑顔に切り替わっていった。


「まあ、飯島の仕事が大変なのはいいことだ。たくさんの人が幸せな結婚式を挙げているってことだからね」


 蔡は、飯島が職業を明かしている数少ない人間だった。

 隣人と声を交わさないことも珍しくない時代に、彼女はフレンドリーによく話しかけてきた。それが出身という台湾の土地柄によるものなのか、彼女自身の性格によるものなのかはわからないが、人との繋がりを大切にしている人物だった。

 部屋で本場の家庭料理を振る舞われたこともあった。

 そういった交流をしているうちに、自然に職業などの話をしていた。


「私も大物の仕事が決まっちゃって大変よ」


 そういえば、蔡の職業を詳しく聞いたことがなかった。

 たしか何かの団体職員だといっていたような気がする。

 尋ねようかとも思った飯島だったが、通勤電車のダイヤが頭をよぎって、会話を切り上げることにした。


「そうですか。蔡さんも頑張って。ウォーキングはまた誘ってください」

「はいよ。またね」


 飯島は階段を降り、駅に向かった。犬の散歩をする主婦や、現場に向かう交通整理員らしき男性とすれ違いながら、足を進める。

 電車はすし詰め状態でないだけましだ。吊革にありついた飯島は、スマートフォンのニュースアプリで世の流れに目を走らせる。

 背中の曲がった経済、足並みの揃わない政治、手垢のついた芸能、目を疑いたくなるような犯罪——。

 日々誰かが笑い、誰かが泣く。いつもと変わらない日常だ。

 スマートフォンをジャケットの内ポケットにしまい、何となしに中吊り広告のほうに首を捻る。

 結婚情報誌ウェンディの広告を見つけた。

 次号あたりには自分のことが書いてあるのかと思う。


 ——あれからほどなくして、ウェンディの取材の日程は決まった。


 今日がその日だった。






 駅を出て向かう先には、すでにベル・エ・ブランシュの教会チャペルが見えている。

 無垢な塔の頂には、大きな鐘が抱かれている。存在感があるので、地元民のあいだではランドマークみたいな扱いを受けていた。

 飯島はバロック様式の白亜の門をくぐり、式場の敷地に入る。

 後ろから声がした。


「主任。おはようございます」


 ヒールの音とともに、黒瀬が小走りで追ってくる。

 スリットが入っているとはいえ、そんなタイトなミニスカートのスーツと足元でよく走られるなと思う。

 横に並ぶと、甘すぎないフレグランスが飯島の鼻を撫でた。


「黒瀬か。おはよう。今日は早いな。いつもはもっと始業に近いだろ」

「なんか早くに目が覚めちゃって」

「なんだ。ウェンディの取材のせいか?」


 部長の立花の提案で、新人の黒瀬もそれに同席することになっていた。

 目的は飯島のインタビューの見学。

 それだけのはずだった。

 ところが先方にそのことを伝えると、飯島の教育を受けるフレッシュな人材にも興味があるため、あわせて話を頂戴したいといってきたのである。

 

「インタビューなら、気を張らなくても適当でいいぞ。頑張りますとか月並みなことでいい」

「ハァ? 緊張なんかしてませんけど? てゆーか、そんな中身のないアドバイスあります?」

「殊勝な部下相手なら、考えて言葉をかけたかもな」


 軽く笑っておいてから、飯島はつづける。


「それよりしっかり見学しておけよ。これも教育の一つだからな」


 ふてくされた雰囲気を残しつつも、黒瀬は「はぁい」と頷いた。

 そのまま二人は教会の裏にあるオフィス棟に入る。

 所属するウェディングプランニング課は二階にあった。

 始業の準備を終えると、じきに挙式の予定等が書かれたホワイトボードの前に課のメンバーが集まり、朝礼が始まる。


「今日は、飯島くんがウェンディの取材を受けます」

 

 立花が笑顔で告げる。

 同僚たちがぱちぱちと拍手を鳴らしてきた。

 

「頑張ってくださいっすー!」

「気を引き締めていきなさい」


 元気な声の主は宮木みやき夏菜子かなこで、抑揚の乏しい口調でいうのは横溝よこみぞ麻里まりだ。

 式場を盛り立てる期待がメインなのは間違いないだろうが、飯島のメディアへの露出をおもしろがっている節もおおいにありそうだった。彼にとって、黒一点でのこういった扱いは慣れたものだが。


「おまえたちな。他人事だと思って……」


 飯島はちらりと黒瀬を見る。

 こういうときには一緒になって囃し立ててきそうなものだったが、彼女は何もいってこなかった。


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