(2)2021:ランチの誘い
デジタル置き時計のアラームを切った。
そのまま時間を確認する。二〇二一年九月十三日。朝の六時半だ。
飯島は喉の渇きを覚えながら、ベッドから身を起こした。湿った肌が熱を脱いでいく感覚がある。
横を見れば、チューハイの空き缶が丸テーブルの上に転がっている。小さな頭痛を連れて、キッチンへとまだ意識の行き渡らない足を運ぶ。冷蔵庫から取り出したペットボトルの天然水を口に流し込むと、腹にしみていく冷たさのおかげでいくぶんか頭がクリアになった。窓の外を見ると、ニュースの予報どおり晴天が広がっていた。
朝食は手短に。身支度には時間をかけて。
スーツに着替え、アパートの部屋を出る。
共同廊下の先、階段を上ってくるジャージ姿の女性が見えた。
飯島は軽く頭を下げてあいさつをする。
「おはようございます」
「おはよう、飯島」
彼女は
「今日も朝からウォーキングですか。元気の秘訣を教えてもらいたいものです」
「簡単だよ。飯島も同じことすればいいだけ。明日どう? いっしょに歩くかい?」
「いや、最近仕事が忙しくて。誘ってもらってありがたいですけど、なかなか今はそういうチャレンジができそうにないです」
「私よりずっと若いのに、なにひ弱なこといっている」
蔡はそうあきれてから、すぐに笑顔に切り替わっていった。
「まあ、飯島の仕事が大変なのはいいことだ。たくさんの人が幸せな結婚式を挙げているってことだからね」
蔡は、飯島が職業を明かしている数少ない人間だった。
隣人と声を交わさないことも珍しくない時代に、彼女はフレンドリーによく話しかけてきた。それが出身という台湾の土地柄によるものなのか、彼女自身の性格によるものなのかはわからないが、人との繋がりを大切にしている人物だった。
部屋で本場の家庭料理を振る舞われたこともあった。そういった交流をしているうちに、自然に職業などの話をしていた。
「私も大物の仕事が決まっちゃって大変よ」
そういえば、蔡の職業を詳しく聞いたことがなかった。
たしか、何かの団体職員だといっていたような気がする。
尋ねようかとも思った飯島だったが、通勤電車のダイヤが頭をよぎって、会話を切り上げることにした。
「そうですか。蔡さんも頑張って。ウォーキングはまた誘ってください」
「はいよ。またね」
飯島は階段を降り、駅に向かった。犬の散歩をする主婦や、自転車をこぐ交通整理員らしき男性とすれ違いながら、足を進める。
目的の時間の電車に乗ることができた。吊革にありついた飯島は、スマートフォンのニュースアプリで世の流れに目を走らせる。
背中の曲がった経済、足並みの揃わない政治、手垢のついた芸能、目を疑いたくなるような犯罪——日々誰かが笑い、誰かが泣く。いつもと変わらない日常だ。
スマートフォンをジャケットの内ポケットにしまう。そのまま中吊り広告のほうに首を捻ると、ウェンディの広告を見つけた。
次号あたりには、自分のことが書いてあるのかと思う。
——あれからほどなくして、ウェンディの取材の日程は決まった。
今日がその日だった。
駅を出て向かう先には、すでにベル・エ・ブランシュの
無垢な塔の頂には、大きな鐘が抱かれている。存在感があるので、地元民のあいだではランドマークみたいな扱いを受けていた。
飯島はバロック様式の白亜の門をくぐり、式場の敷地に入る。
後ろから声がした。
「主任。おはようございます」
ヒールの音とともに、黒瀬が小走りで追ってくる。
スリットが入っているとはいえ、そんなタイトなミニスカートのスーツと足元でよく走られるなと思う。
横に並ぶと、甘すぎないフレグランスが飯島の鼻を撫でた。
「黒瀬か。おはよう。今日は早いな。いつもはもっと始業に近いだろ」
「なんか早くに目が覚めちゃって」
——ウェンディの取材のせいだろうか。
部長の立花の提案で、新人の黒瀬もそれに同席することになっていた。
当初の目的は、インタビューの見学。
それだけのはずだった。
ところが先方にそのことを伝えると、飯島の教育を受けるフレッシュな人材にも興味があるため、あわせて話を頂戴したいといってきたのである。
「取材が理由なら、気を張らなくても適当でいいぞ。頑張りますとか月並みなことでいい」
「ハァ? 緊張なんかしてませんけど。てゆーか、そんな中身のないアドバイスあります?」
「殊勝な部下相手なら、考えて言葉をかけたかもな」
軽く笑っておいてから、飯島はつづける。
「それよりしっかり話を聞いておけよ。これも教育の一つだからな」
ふてくされた雰囲気を残しつつも、黒瀬は「はぁい」と頷いた。
そのまま、ともに教会の裏にあるオフィス棟に入る。
飯島たちの所属するウェディングプランニング課は、二階にあった。
始業の準備を終えると、じきに挙式の予定等が書かれたホワイトボードの前に課のメンバーが集まり、朝礼が始まる。
「今日は、飯島くんがウェンディの取材を受けます」
立花が笑顔で告げる。
同僚たちが、ぱちぱちと拍手を鳴らしてきた。
「頑張ってくださいっすー!」
「気を引き締めていきなさい」
元気な声の主は
式場を盛り立てる期待がメインなのは間違いないだろうが、飯島のメディアへの露出をおもしろがっている節もおおいにありそうだった。彼にとって、黒一点でのこういった扱いは慣れたものだが。
「おまえたちな。他人事だと思って……」
飯島はちらりと黒瀬を見る。
こういうときには一緒になって囃し立ててきそうなものだが、彼女は何もいってこなかった。
取材のアポイントは午後で受けていた。
午前中は通常業務をこなし、ランチタイムに入る。
飯島が書類を片付けて財布を手にとると、黒瀬が話しかけてきた。
「主任。ランチって誰かと予定あります?」
「ないが。どうした。横溝たちはもう出ていってしまったぞ。いつもみたいに一緒にいかなくていいのか?」
「はい。てゆか、今日ついてっていいですか?」
「構わないが……おまえたちが通っているような洒落たカフェじゃないぞ」
「オッケーです」
珍しいこともあるものだ。そう思いながら、黒瀬を連れて門に向かう。
ふと、そこでの朝の会話を思い出して、飯島はあきれていった。
「黒瀬、やっぱり緊張しているんじゃないのか?」
「だからしてませんって」
前髪を触るしぐさを見るに、図星だろうか。
ランチに誘ってきたのは、心を和らげたい気持ちがあったからかもしれない。
「ただ、どうせ主任のことだから、インタビューにビビってガタガタ震えてんだろーなって思ったんで、一緒にランチ食べて相談乗ってあげよって思っただけです」
「おまえの中の俺はなんなんだよ」
あまりの言い草に、飯島は笑ってしまう。
「俺は、気持ち的には変わりないな。いたってふつうだ」
「強がらなくていいんですよ。知ってますから」
「そうか。知っているか」
適当な相槌とともに歩を進めていくと、目的の店に到着した。
表の通りから一本裏に入ったところにある、レトロな喫茶店——『ガテマラ』という名のその店は、飯島がよくランチに利用する場所だった。
ベルを揺らしつつ扉を開けると、芳醇なコーヒー豆の香りが迎え入れてくれる。
「今日はテーブルで」と顔馴染みの店主に指を二本立てつつ、飯島は窓際のテーブル席に黒瀬と向かい合って座った。
「俺は決まっているから、一人で見ていいぞ」
ガテマラでは、ほとんど日替わり弁当しか食べなかった。メニュー表を黒瀬に渡す。
彼女のオーダーが決まるのを待つあいだ、飯島はカウンターや棚を眺めた。創業から長い時間をかけて集められた、アンティークのコーヒーミルなどの小物が、所狭しと並べられている。
「どうだ、決まったか」
飯島はタイミングを見て尋ねる。
珍しくどこか上の空だった黒瀬は、ネイルの先で写真を指した。
「えっ、あー……。このサンドイッチにしよっかな」
「セットのコーヒーはつけなくていいか? ここは豆がいい」
「主任はいつも飲んでるんですか?」
「ああ」
「じゃあ、飲みます」
「わかった。マスター、注文を」
店主を呼んで、飯島はオーダーを済ませる。人を連れてきたのがよほど珍しいのか、彼は何か含みのある顔をしていた。
初めての店内を、黒瀬はぼんやりと見渡す。
目を留めたのは客が利用する本棚だった。
ラインナップは古い青年漫画ばかりだ。飯島は過去に一通り読んでいたが、特に中身を覚えているわけではない。
「気になるか? 黒瀬は漫画とか読まなさそうだな」
「全然読みますよ」
「へえ、意外だ。どんなのを読むんだ? やはり少女漫画か?」
そう尋ねつつも、夢見がちな乙女のイメージは黒瀬にそぐわなかった。どちらかというと、彼女は擦れた雰囲気の持ち主だ。
「やー、そっちはなくて。少年誌とかオタク系が多いですね」
「さらに意外だ」
「ゆーて、自分では買わないですけど。おと……父がオタクで持ってるから、暇なときに借りて読む感じだと、そんなのばっかになるんです」
「そうなのか。俺の親父とはまったく違うな。まあ、こっちの親世代だとオタクみたいな人はほとんどいなかったからな。自分の小遣い使わなくても漫画が読めるのは羨ましいよ」
「そうなんですか。うち、姉もいるんですけど。そっちもオタクなんで、むしろウザいくらいに漫画やアニメだらけですよ。私のフィットネスグッズが置けなくなるから処分しろよっていうんですけど、全然減ってかないんです」
「むしろ増えていくんだよな」
「ほんまそれ。マジでぇ——」
飯島は黒瀬の表情を見ながらいった。
「——調子出てきたか?」
「は? 調子?」
「俺はまだインタビューにビビってガタガタ震えているから、相談に乗ってほしいんだが。そろそろ聞いてくれるか?」
「……ふーん、そうくるカンジですか」
黒瀬はすねたように目をそらしていった。
「まあ? ぶっちゃけ? 主任がいったみたいに? 一ミリも緊張してないわけじゃないですけど」
素直なのか意地っ張りなのかわからない。
その様子を鼻で笑ってから、飯島はいった。
「黒瀬。この店落ち着くだろ」
「え? あー、はい。懐かしいっていうか、エモい感じ。わりと好きかも」
「感謝してくれ。おまえのためを思って、この喫茶店にしたんだ。知っているか? コーヒー豆の香りには、リラックス効果があるらしいぞ。緊張が和らぐよな」
しばしの思考ののち、半目になって返された。
「ホントにそこまで計算してました?」
「バレてるか。いつもきているからきただけだ。豆知識は受け売りを思い出した」
飯島はうつむいて喉を鳴らす。そして、視線を黒瀬に定め直した。
「だが、おまえがリラックスできればいいと思ったのは本当だ」
彼女は口を結ぶ。飯島はつづけていった。
「まあ、新郎新婦とのミーティングにもまだ同席していないおまえに、いきなり今回みたいなシチュエーションでしゃべれっていうのも大変だと思う」
緩くかぶりを振る。それから椅子に寄りかかり、なんでもないことのように笑った。
「しかし、黒瀬が気を張るとはな。採用面接のときといい勝負じゃないか?」
「さあ? どうでしょう」
黒瀬の声はぶっきらぼうだ。
「あのときはカチコチだったな」
「そんなことないです」
「ちょっと声が震えていたのはおもしろかったな」
「耳バグってますよ、それ」
「最後はめちゃくちゃするしな」
「もうサイアク。サイテー」
テーブルに斜めに突っ伏し、黒瀬は羞恥のこもったまなざしを突き刺してくる。
「人が必死だったときをイジるとかありえないですよ」
「たまには俺もやり返していいだろ」
飯島は唇を緩ませながら、コップの水を小さく含んだ。
「だが、そんな初々しかった黒瀬も、今やすっかり生意気なやつになってしまったな。あのころが遠い昔のようだ」
「……悪かったですね。気に食わない部下で」
黒瀬の眉が複雑そうにしなる。
「いいや。今のほうがずっといいって話だ」
はっとしたあと、何かいおうと彼女は口を開いた。しかし、同時に店主が日替わり弁当とサンドイッチを持ってきたため、タイミングを失い閉じてしまう。
飯島は割り箸を取り出してつづけた。
「仕事には緊張が必要な場面もあるが、今日のおまえは自然体でいいだろう。取材のときだって、いつもみたいに俺に茶々いれるくらいでいいんだよ。変に小難しいことは考えないでいいし、いわなくていい。思ったことを出せば十分だ。万が一それが不適切なものだったとしても、俺がフォローする。それが上司の役目だ」
そして和え物を口にし、主菜へ箸を伸ばす。
「ほら、しっかり食べて午後に備えるぞ。ここは飯もうまいんだ」
黒瀬は沈黙ののち、「はい」とサンドイッチを手にとった。口に持っていくまえに、ちらりと飯島を見てきていう。
「もしかしてなんですけど」
「なんだ」
「さっきの豆知識って、コーヒー豆とかけてます?」
飯島は意味深に見返してからいった。
「気づいたか。うまいだろ」
「オヤジギャグじゃん」
黒瀬は笑ってサンドイッチを口にする。
——ん。うま。
そう柔らかく目を細める表情を、見たことないなと飯島は思った。
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