(5)ランチの誘い



 取材のアポイントは午後で受けていた。

 午前中は通常業務をこなし、ランチタイムに入る。

 飯島が財布を手にとると、黒瀬が話しかけてきた。


「主任。ランチって誰かと予定あります?」

「ないが、どうした。横溝たちはもう出ていってしまったぞ。いつもみたいに一緒にいかなくていいのか?」

「はい。てゆか、今日ついてっていいですか?」

「構わないが……おまえたちが通っているような洒落たカフェじゃないぞ」

「オッケーです」


 珍しいこともあるものだ。

 そう思いながら、黒瀬を連れて門に向かう。

 ふと、そこでの朝の会話を思い出して、飯島はあきれていった。


「黒瀬、やっぱり緊張しているんじゃないのか?」

「だからしてませんって」


 前髪を触るしぐさを見るに、図星だろうか。

 ランチに誘ってきたのは、心を和らげたい気持ちがあったからかもしれない。


「ただ、どうせ主任のことだからインタビューにビビってガタガタ震えてんだろーなって思ったんで、一緒にランチ食べて相談乗ってあげよってなっただけです」

「おまえの中の俺はなんなんだよ」


 あまりの言いぐさに、飯島は笑ってしまう。


「俺は、気持ち的には変わりないな。いたってふつうだ」

「強がらなくていいんですよ。知ってますから」

「そうか。知っているか」


 適当な相槌とともに歩を進めていくと、目的の店に到着した。

 レトロな喫茶店——『ガテマラ』という名のその店は、飯島がよくランチに利用する場所だった。

 ベルを揺らしつつ扉を開けると、芳醇なコーヒー豆の香りが迎え入れてくれる。

「今日はテーブルで」と顔馴染みの店主に指を二本立てつつ、飯島は窓際のテーブル席に黒瀬と向かい合って座った。


「俺は決まっているから、一人で見ていいぞ」


 ガテマラでは日替わり弁当しか食べなかった。メニュー表を黒瀬に渡す。

 彼女のオーダーが決まるのを待つあいだ、飯島はカウンターや棚を眺めた。アンティークのコーヒーミルなどの小物が、所狭しと並べられている。


「どうだ。決まったか?」


 タイミングを見て尋ねる。

 珍しくどこか上の空だった黒瀬は、ネイルの先で写真を指した。


「えっ、あー……。このサンドイッチにしよっかな」

「セットのコーヒーはつけなくていいか? ここは豆がいい」

「主任はいつも飲んでるんですか?」

「ああ」

「じゃあ、飲みます」

「わかった。マスター、注文を」


 店主を呼んで、飯島はオーダーを済ませる。人を連れてきたのがよほど珍しいのか、彼は何か含みのある顔をしていた。


「……」


 初めての店内を、黒瀬はぼんやりと見渡す。

 目を留めたのは客が利用する本棚だった。

 ラインナップは古い青年漫画ばかりだ。飯島は過去に一通り読んでいたが、特に中身を覚えているわけではない。


「気になるか? 黒瀬は漫画とか読まなさそうだな」

「全然読みますよ」

「へえ、意外だ。どんなのを読むんだ? やはり少女漫画か?」

 

 そう尋ねつつも、夢見がちな乙女のイメージは黒瀬にそぐわなかった。どちらかというと、彼女は擦れた雰囲気の持ち主だ。


「やー、そっちはなくて。少年誌とかオタク系が多いですね」

「さらに意外だ」

「ゆーて、自分では買わないですけど。おと……父がオタクでメッチャ持ってるから、暇なときに借りて読む感じだとそんなのばっかになるんです」

「ああ、おまえは実家暮らしだったか。しかし俺の親父とはまったく違うな。まあ、こっちの親世代だとオタクみたいな人はほとんどいなかったからな。自分の小遣い使わなくても漫画が読めるのは羨ましいよ」

「そうなんですか。うち、姉もいるんですけど。そっちもオタクなんで、むしろウザいくらいに漫画やアニメだらけですよ。私のフィットネスグッズが置けなくなるから処分しろよっていうんだけど、全然減ってかないの」

「むしろ増えていくんだよな」

「ほんまそれ。マジでぇ——」


 飯島は黒瀬の表情を見ながらいった。


「——調子出てきたか?」

「は? 調子?」

「俺はまだインタビューにビビってガタガタ震えているから、相談に乗ってほしいんだが。そろそろ聞いてくれるか?」

「……ふーん、そうくるカンジですか」


 黒瀬はすねたように目をそらしていった。


「まあ? ぶっちゃけ? 主任がいったみたいに? 一ミリも緊張してないわけじゃないですけど」


 素直なのか意地っ張りなのかわからない。

 その様子を鼻で笑ってから、飯島はいった。


「黒瀬。この店落ち着くだろ」

「え? あー、はい。懐かしいっていうか、エモい感じ。わりと好きかも」

「感謝してくれ。おまえのためを思って、この喫茶店にしたんだ。知っているか? コーヒー豆の香りにはリラックス効果があるらしいぞ。緊張が和らぐよな」


 しばしの思考ののち、半目になって返された。


「ホントにそこまで計算してました?」

「バレてるか。いつもきているからきただけだ。豆知識は受け売りを思い出した」


 飯島は視線を黒瀬に定め直していった。


「だが、おまえがリラックスできればいいと思ったのは本当だ」


 彼女は口を結ぶ。


「まあ、新郎新婦とのミーティングにもまだ同席していないおまえに、いきなり今回みたいなシチュエーションでしゃべれっていうのも大変だと思う」


 飯島は緩くかぶりを振る。それから椅子に寄りかかり、なんでもないことのように笑った。


「しかし、黒瀬が気を張るとはな。採用面接のときといい勝負じゃないか?」

「さぁ? どうでしょ」


 黒瀬の声はぶっきらぼうだ。


「あのときはカチコチだったな」

「そんなことないです」

「ちょっと声が震えていたのはおもしろかったな」

「耳バグってますよ、それ」

「最後はめちゃくちゃするしな」

「もうサイアク。サイテー」


 テーブルに斜めに突っ伏し、黒瀬は羞恥のこもったまなざしを突き刺してくる。


「人が必死だったときをイジるとかありえなくない?」

「たまには俺もやり返していいだろ」

 

 飯島は唇を緩ませながら、コップの水を小さく含んだ。


「だが、そんな初々しかった黒瀬も今やすっかり生意気なやつになってしまったな。あのころが遠い昔のようだ」

「……悪かったですね。気に食わない部下で」


 黒瀬の眉が複雑そうにしなる。


「いいや。今のほうがずっといいって話だ」


 はっとしたあと、何かいおうと彼女は口を開いた。しかし、同時に店主が日替わり弁当とサンドイッチを持ってきたため、タイミングを失い閉じてしまう。

 飯島は割り箸を取り出してつづけた。


「仕事には緊張が必要な場面もあるが、今日のおまえは自然体でいいだろう。取材のときだって、いつもみたいに俺に茶々いれるくらいでいいんだよ。変に小難しいことは考えないでいいし、いわなくていい。思ったことを出せば十分だ。万が一それが不適切なものだったとしても、俺がフォローする。それが上司の役目だ」


 そして和え物を口にし、主菜へ箸を伸ばす。


「ほら、しっかり食べて午後に備えるぞ。ここは飯もうまいんだ」


 黒瀬は沈黙ののち、「はい」とサンドイッチを手にとった。

 口に持っていくまえに、ちらりと飯島を見てきていう。


「もしかしてなんですけど」

「なんだ」

「さっきの豆知識って、コーヒー豆とかけてます?」


 飯島は意味深に見返してからいった。


「気づいたか。うまいだろ」

「オヤジギャグじゃん」


 黒瀬は笑ってサンドイッチを口にする。


 ——ん。うま。


 そう柔らかく目を細める表情を、見たことないなと飯島は思った。


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