(6)ヘアセット ①

 


 自分の代金は支払うという黒瀬を外に追い出し、飯島は二人分の勘定を済ませてガテマラを出た。

 秋口といえども、正午の日差しはまだ夏の匂いを残している。

 軒下の日陰で、黒瀬は若干気まずそうに笑っていた。


「ゴチさまです。そんなつもりじゃなかったんですけど」

「俺はそのつもりだった」


 飯島は歩きだした。談笑とともにいくサラリーマンの団体を眺めながらいう。


「ランチタイムになると、おまえたちはみんな連れ立って出ていってしまうだろ。そうすれば、俺はいつも一人だ」

「ま、そうですね」

「たまには後輩に飯でも奢って、上司としてのプライドを保ちたくなるんだよ。俺の自己満足に付き合わせて悪かったな」


 特別に敬意も興味もほしいとは思わないが、ある種の寂しさめいたものがないとはいいきれなかった。「は? ダッサ」と隣から聞こえた気がしたが、あくまで気がしたにすぎないので、頭の中から排除しておくことにする。

 すると、黒瀬は肩をついついと指で突っついてきた。


「あー、てゆうことは? 実は私にランチ誘われたとき、メチャクチャ嬉しかったってことですか?」

「ずいぶんと都合のいい解釈だな」


 隙を見せてしまったことを後悔しても、もう遅かった。

 彼女は無視してつづける。


「しょうがないですね、主任は。これからは、プライドを満たしたくなったらいつでも私を使っていいですよ。主任のためにいくらでも奢られてやります」

「いつもどおりでいいとはいったが、調子に乗れとはいってないぞ」

「次は駅前のほうでどうですか? 私お店探しておきますけど」

「話聞けよ」


 げんなりした様子で飯島はつぶやいた——けれど、ふだんの黒瀬が戻ってきたことには素直にほっとしていた。このままウェンディの取材も乗り切ってくれたらいいのだが……と考えていると、彼女が顔をじっと見てきていった。


「主任。なんかヘアセット乱れてないですか?」

「そうか? いつもどおり整えているけどな」

「このままだと、イケてない写真でインタビュー載っちゃいますよ?」


 そう小ばかにしてから、思いついたふうに聞いてきた。


「そうだ。ワックスとかって持ってます?」

「あ? ああ。オフィスのロッカーに備えてあるが」

「貸してください。私がイイ感じにセットしますよ」


 不敵な笑みは自信の表れだろうか。黒瀬は胸に手を置いていった。

 飯島は身を引いて答える。


「なんだそれ。おまえまさか、このまえのヘアサロンの話を根に持っているんじゃないだろうな。髪が乱れているっていうなら自分で整え直すから、変なことしなくていい」

「これにはちゃんと理由があるんですって」

「そんな大層なものあるか。他人ひとで遊びたいだけだろ」

「いいですか? 考えてみてください。ウェンディの読者層はほぼ百で女子ですよ? 女子ウケのいいビジュアルにすることで、このあとのインタビューの内容に説得力が増すんです。逆に、ダサい見た目で何いわれたって、一ミリも心に響きません。女子ウケなんて主任にはよくわかんないっしょ。私はわかりますけど。女子なんで」

「ううむ……たしかに、商談の場で印象の隙間をプラスに埋めてくれるのは、そういう要素だったりするが」

「そうしてバズッた記事がお客さんを呼んで、ベル・エ・ブランシュの宣伝は大成功。夏菜子先輩も麻里さんも、主任のこと見直してくれると思いますよ? ワンチャン、ランチに誘われちゃうかも?」


 へらへらと笑って黒瀬はいう。

 首の後ろをさすりつつ、飯島は顔をそらした。


「さっきのは口が滑っただけだ。忘れてくれ」

「イヤです。忘れません」


 黒瀬は顔を覗き込んできて、薄く笑った。


「とにかく、女子目線は大切なんです。主任」


 根負けしたというか、うまくいいくるめられた気持ちがあった。

 飯島は息をついて返した。


「……わかった、勝手にしろ」

「りょーかい。そうと決まれば、はやく戻ってキメちゃいましょう」

「おい、待ってくれ」


 腕をつかまれ、足を早められる。

 帰ってきたオフィスには、横溝などのメンバーはまだいなかった。

 飯島は整髪料を黒瀬に手渡してやる。


「これでいいか?」

「あざーす。じゃ、こっちきてください」


 ヘアセッティングは、給湯室の横にある鏡の前で行われた。

 飯島はオフィスチェアーに腰を下ろし、その後ろに黒瀬が立つ。明かりをつければ、さながらシンプルなヘアサロンに思えなくもない。

 黒瀬は飯島の髪質を確認しつついう。


「どんなふうにいこうかなー」

「黒瀬はこういう他人ひとのヘアセットはよくするのか?」

「んー、さっきいってたオタクの姉にやってあげるくらいですかね」

「姉妹とは仲が良いんだな」

「仲良いほうとは思いますけど……どっちかってゆーと、私が触りたいから触ってるってカンジかな?」

「ふうん」


 そう返すと、鏡越しに黒瀬と目が合った。

 彼女はいたずらっぽくいってきた。


「なんてゆーか、ペットいじって遊びたい的な?」

「俺は人間なんだが」

「主任は断然、犬ですよね。ジャーマンシェパードっぽいかなー」

「そうかい。ブルドッグじゃなくてよかった」

「えー? あの子も可愛くないですか?」


 黒瀬は笑いつつ、整髪料を手に乗せて髪に馴染ませていく。

 このまま目を開けていても、視線が合うたびにいじられそうな気がしたので、飯島は鼻を鳴らして目蓋を下ろした。

 すると、思ったより黒瀬の手つきが心地いいのと、食後というタイミングもあいまって、しだいに意識が薄れてくる。

 ついうとうととしかけたときだった。


「——あ、ハゲ」

「どこだ」


 即座に覚醒する。

 黒瀬はすこぶる楽しそうに耳元でささやいてきた。


「あは。ウソですよ。なんか気持ちよさそうにしてたから、イジワルしたくなっただけです」

「くそ……」


 セット中のため、情けなさにうなだれることもできない。

 結局目を開けることにしていると、どうやら完成に至ったようだった。

 飯島はあらためて鏡と向き合う。

 ふだんは下ろしている髪が、引き締まった印象でバックに流されていた。顔は自分のものなのに、別人みたいに思える。まるで海外のショーで見るマジシャンのようだった。

 黒瀬は、給湯室のシンクで手を洗いつつ語る。


「主任はいつもの感じも悪くないですけど、ちょっと雰囲気が弱いかなって思ってて。だから、今回はオーラが出るようにまとめてみました」

「ああ。すごいな、黒瀬は」


 飯島は鏡を見ながら顔の角度を変えてみる。

 再び鏡越しに黒瀬と目が合った。


「似合ってますよ」


 笑いかけてくる表情は、いつになく優しいものに思えた。

 礼を述べようと開いた飯島の口は、しかしどうしてか動かなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る