(10)黒瀬デー
「飲みなら宮木たちも誘うか」
「ダメですよ。ウェンディの取材の打ち上げだっていったじゃないですか。私たちだけに決まってます」
「昼をおまえと食べて、夜もサシ飲みか。今日は黒瀬が相手ばかりだな」
「いいじゃないですか。黒瀬デーってことで。パーッと黒瀬を堪能しちゃいましょう」
「なんだそれは。意味がわからないぞ」
そんな会話を繰り広げたあげく、終業時刻はやってきた。
宵口の空の下、飯島は黒瀬とベル・エ・ブランシュを出る。
飲食店が並んでいる最寄り駅への道すがら、彼女が聞いてきた。
「そういえば、主任は昼の話どうするんですか?」
「昼の話?」
「あのおん……赤星先輩とごはん食べにいくって」
「ああ、それか」
飯島は記憶にたどり着いて答える。
「彼女には悪いが、断るだろうな」
「ふーん。なんでですか?」
「なんだろう。想像できないからか。彼女と飲んでいる自分が何をしゃべって、どんな気持ちなのか」
「……へえぇぇ~?」
黒瀬はやたらと感嘆詞を伸ばしてから、小意地の悪い顔でいった。
「っていうと? 拒否らなかったってことは? 私とこれから飲むのは想像できてるってことですよね? いったいどんな気持ちなんですか?」
飯島の肘に彼女の手が触れた。内側に入り込むか込まないか、からかうようにボディタッチをしてくる。
彼は腕を逃がしていい返した。
「なんだっていいだろう」
「その想像、超えちゃってもいいですか?」
それはいかにも適当かつ軽薄な発言だったが、飯島の歩みを鈍らせた。
「……うるさいやつだな。面倒な想像ばかりなんだからやめてくれ。まったく。このまま電車で帰りたくなってきた」
「コンビニでお酒買って、主任の部屋で宅飲みですね。私つまみ作りますよ」
「さすがにその解釈はおかしいだろ。どれだけ飲みたいんだ」
きゃははは、と黒瀬は機嫌よさそうに笑った。
駅前の雑居ビルに入っている和風の海鮮居酒屋で、二人は飲むことにした。
小さな個室に通されて、飯島がジャケットを衣紋掛けにかけていると、店員が飲み物を聞きにくる。答えようと振り向いたときには、すでに黒瀬がビールを注文していた。
二人は掘りごたつ式のテーブルに向かい合って座る。
黒瀬がブラウスの袖をまくりつついった。
「さぁ、飲むぞ~」
「くはは。やる気満々だな」
「主任もシャツまくったらどうですか? オフだし。どうせ熱くなるんだし」
「なったらそのときにする。あまり皺を作りたくないんだ」
「夏でもそうですよね、主任って。クールビズ下手くそかっ」
びしりと突っ込まれ、飯島はしかめ面になった。
「なんだ、おまえ。飲んでもないのに酔ってないか?」
「全然? てゆーか怒っちゃいました? ここは無礼講ってことでヨロシク」
黒瀬はわざとらしく顔の前で手を合わせ、小首を傾げて覗いてくる。
「そいつは無礼するやつがいうものじゃないんだよ」
文句をいうのもばかばかしくなって、飯島は笑ってしまう。
そんな他愛ない話をしていたら、じきに瓶ビールとお通しが運ばれてきた。
「カンパーイ!」
黒瀬が明るい声でいった。
グラスを打ちつけ合い、飯島は口をつける。ホップの苦みを楽しむ程度に止めた。
対照的に、黒瀬はいっきにグラスを空にする。
そのとき気づいたのは、彼女の首の左側にホクロが二つ連なっていることだった。
目を惹くように二点。
毒蛇に咬まれた痕みたいだと思った。
飯島にとっては、彼女こそが毒蛇みたいな厄介さではあるが。
「……そんなところにホクロあったんだな」
ついつぶやくと、黒瀬は見せつけるように首を捻って指先を添わせた。
「キスマークみたいでエロいっしょ?」
「それは知らないけどな」
「えー? ホントですかぁ?」
黒瀬は意地悪く笑いながら、早くも次の一杯を注ぐ。
その様子に飯島はいった。
「二十歳を過ぎて経っていないのに、黒瀬はだいぶ酒に慣れているんだな」
黒瀬は不思議そうに笑った。
「マジでいってます? お酒なんて、みんな高校生ぐらいのときには飲んでないですか? 短大いってからはもっとフツーでしたよ」
「……なんだかな。おまえといると、住む世界の違いを感じるよ」
「もう。なに鈍くさいこといってるんですか。ほらほら、飲んで飲んで。私の酒が飲めないとはいわせませんよ」
「おまえは元気だな」
そう返すと、黒瀬は飯島にだけささやくようにコールをしてきた。
「ハイ、ハイ、飯島主任のちょっとイイとこ見てみたい。イッキ、イッキ」
よもや部下からアルコールハラスメントを受ける日がくるとは思ってもみなかったが、飯島はいわれるままにビールをあおった。彼女の雰囲気に当てられたのだろうか、先ほどよりおいしく感じた。
ふう、と息をついてこぼす。
「俺はもう変に疲れてしまった。取材なんて慣れない仕事はするものじゃないな」
「おつかれさまです、主任。とっても頑張りましたね。えらいえらい。えらい人はもっと飲んでいいんですよぉ?」
そういって、黒瀬は空いたグラスにビールを注いでくる。
「酌とかやめてくれよな」
「えー。なんで」
「そういうのは今の時代うるさいんだ。特に、おまえみたいな若い女が絡むとな」
「誰がうるさいんですか」
「誰って、世間が」
「——二人しかいないのに?」
飯島は言葉が出てこなかった。
——閉鎖的な空間に漂う、開放的な空気。
透明感のある肌に、わずかに桃色が差している。
しなやかに立てた頬杖。
華奢なネックレスが視線を
滑らかな鎖骨。そして満ち満ちたふくらみ。
緩んだ薄めの唇。
少女時代の面影。それと相反する、腹の底をくすぐるまなざし——。
どれもが酔いを強くする気がした。
「主任? どうかしましたか?」
そしらぬ声。
だが、足に甘く触れてくるものがある。
目の前の女の足だ。
ストッキングに包まれたそれは、するすると体温を残して撫でていく。まるで掘りごたつの下に蛇が潜んでいて、絡みついてきているかのような錯覚に陥る。
——酒が入って、悪戯心が増しているのだろうか?
ぞくぞくと背筋に何かが走った。
飯島は足を引き、強引に話題を変えることにした。
「しかしなんだ、今日はレアなものを見たな」
「なんですか?」
「おまえがかしこまって敬語を使っている姿だよ。面接のとき以来じゃないか」
黒瀬は眉を八の字にして、ため息をつく。
「またその話ですか。もういいですって」
「まあ、そういうな。大人はな、酒が入ると昔話をしたくなるものなんだ」
飯島はつまみを口内で転がしてから、ビールを再び流し込んだ。
ゆっくりと浮遊しはじめる意識の中で、一年前の夏の日のことを思い出していた。
※
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます