(6)2021:黒瀬デー

「飲みなら宮木たちも誘うか」

「ダメですよ。ウェンディの取材の打ち上げだっていったじゃないですか。私たちだけに決まってます」

「昼をおまえと食べて、夜もサシ飲みか。今日は黒瀬が相手ばかりだな」

「いいじゃないですか。黒瀬デーってことで。パーッと黒瀬を堪能しちゃいましょう」

「なんだそれは。意味がわからないぞ」


 そんな会話を繰り広げたあげく、終業時刻はやってきた。

 宵口の空の下、飯島は黒瀬とベル・エ・ブランシュを出る。

 飲食店が並んでいる最寄り駅への道すがら、彼女が聞いてきた。


「そういえば、主任は昼の話どうするんですか?」

「昼の話?」

「あのおん……赤星先輩とごはん食べにいくって」

「ああ、それか」


 飯島は記憶にたどり着いて答える。


「彼女には悪いが、断るだろうな」

「ふーん。なんでですか?」

「なんだろう。想像できないからか。彼女と飲んでいる自分が何をしゃべって、どんな気持ちなのか」

「……へえぇぇ~」


 黒瀬はやたらと感嘆詞を伸ばしてから、小意地の悪い顔でいった。


「っていうと? 拒否らなかったってことは? 私とこれから飲むのは想像できてるってことですよね? いったいどんな気持ちなんですか?」


 飯島の肘に彼女の手が触れた。内側に入り込むか込まないか、からかうようにボディタッチをしてくる。

 彼は腕を逃がして、いい返した。


「なんだっていいだろう」

「その想像、超えちゃってもいいですか?」


 それはいかにも適当かつ軽薄な発言だったが、飯島の歩みを鈍らせた。


「……うるさいやつだな。面倒な想像ばかりなんだからやめてくれ。まったく……このまま電車で帰りたくなってきた」

「コンビニでお酒買って、主任の部屋で宅飲みですね。私つまみ作りますよ」

「さすがにその解釈はおかしいだろ。どれだけ飲みたいんだ」


 きゃははは、と黒瀬は機嫌よさそうに笑った。





 駅前の雑居ビルに入っている海鮮居酒屋で、二人は飲むことにした。

 日本家屋の座敷を模した内装はカジュアルな雰囲気だ。

 小さな個室に通されて、飯島はジャケットを衣紋掛けにかける。ふと黒瀬のほうを見ると、カーディガンをするりと脱ぎ落とし、ノースリーブのブラウスのみになっていた。きめ細やかな肌の色が目に飛び込み、どうしてか反射的に目を背けてしまう。そうした先で、ちょうど店員が飲み物を聞きにきたので答えようとすると、黒瀬が勝手にビールを注文した。

 二人は、掘りごたつ式のテーブルに向かい合って座る。

 黒瀬が袖をまくるふりをしていった。


「さぁ、飲むぞ~」

「くはは。袖もないのに。やる気満々だな」

「主任こそシャツまくったらどうですか? オフだし。どうせ熱くなるんだし」

「なったらそのときにする。あまり皺を作りたくないんだ」

「夏でもそうですよね、主任って。クールビズ下手くそかっ」


 びしりと突っ込まれ、飯島はしかめ面になった。


「なんだ、おまえ。飲んでもないのに酔ってないか?」

「全然? てゆーか怒っちゃいました? ここは一つ無礼講ってことで」


 黒瀬はわざとらしく顔の前で手を合わせ、小首を傾げて覗いてくる。


「そいつは無礼するやつがいうものじゃないんだよ」


 文句をいうのもばかばかしくなって、飯島は笑ってしまう。

 そんな他愛ない話をしていたら、じきに瓶ビールとお通しが運ばれてきた。


「カンパーイ!」


 黒瀬が高い声でいった。

 グラスを打ちつけ合って、飯島は口をつける。ホップの苦みを楽しむ程度に止めた。

 対照的に、黒瀬はいっきにグラスを空にする。

 ——そのとき気づいたのは、ごくごくと動く首の左側に、ホクロが二つ連なっていることだった。

 きれいな間隔で水平に二点。

 毒蛇に咬まれた痕みたいだと思った。

 飯島にとっては、彼女こそが毒蛇みたいな厄介さではあるが。


「あー、うまっ」

「二十歳を過ぎて一年も経っていないのに、黒瀬はだいぶ酒に慣れているんだな」


 早くも次の一杯を注ぐ様子に飯島がいうと、黒瀬は不思議そうに笑った。


「マジでいってます? お酒なんて、みんな高校生ぐらいのときには飲んでないですか? 短大いってからはもっとフツーでしたよ」

「……なんだかな。おまえといると、住む世界の違いを感じるよ」

「もう。なに鈍くさいこといってるんですか。ほらほら、飲んで飲んで。私の酒が飲めないとはいわせませんよ」

「おまえは元気だな」


 そう返すと、黒瀬は飯島にだけささやくようにコールをしてきた。


「ハイ、ハイ、飯島主任のちょっとイイとこ見てみたい。イッキ、イッキ」


 よもや部下からアルコールハラスメントを受ける日がくるとは思ってもみなかったが、飯島はいわれるままにビールをあおった。彼女の雰囲気に当てられたのだろうか、先ほどよりおいしく感じた。

 ふう、と息をついてこぼす。


「俺はもう変に疲れてしまった。取材なんて、慣れない仕事はするものじゃないな」

「おつかれさまです、主任。とっても頑張りましたね。えらいえらい。えらい人はもっと飲んでいいんですよ?」


 そういって、黒瀬は空いたグラスにビールを注いでくる。

 ねぎらうというよりはあやされているように感じ、飯島は小恥ずかしくなった。


「酌とかやめてくれよな」

「えー。なんで」

「そういうのは今の時代うるさいんだ。特に、おまえみたいな若い女が絡むとな」

「誰がうるさいんですか」

「誰って、世間が」

「——二人しかいないのに?」


 蠱惑的とさえ感じる笑みだった。飯島は言葉が出てこなかった。

 閉鎖的な空間に漂う、開放的な空気。透明感のある肌に、わずかに桃色が差している。しなやかに立てた頬杖。華奢なネックレスが視線をいざなう。滑らかな鎖骨。そして満ち満ちたふくらみ。緩んだ薄めの唇。少女時代の面影。それと相反する、腹の底をくすぐるまなざし——。

 どれもが酔いを強くする気がした。


「主任? どうかしましたか?」


 そしらぬ声。

 だが、足に甘く触れてくるものがある。目の前の女の足だ。

 ストッキングに包まれたそれは、するすると体温を残して撫でていく。まるで掘りごたつの下に蛇が潜んでいて、絡みついてきているかのような錯覚に陥る。

 酒が入って、悪戯心が増しているのだろうか——?

 ぞくぞくと背筋に何かが走った。

 飯島は足を引き、強引に話題を変えることにした。


「しかしなんだ、今日はレアなものを見たな」

「なんですか?」

「おまえがかしこまって敬語を使っている姿だよ。面接のとき以来じゃないか」


 黒瀬は眉を八の字にして、ため息をつく。


「またその話ですか。もういいですって」

「まあ、そういうな。大人はな、酒が入ると昔話をしたくなるものなんだ」


 飯島はつまみを口内で転がしてから、ビールを再び流し込んだ。

 ゆっくりと浮遊しはじめる意識の中で、一年前の夏の日のことを思い出していた。



                   ※


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