(9)2021:姉妹



                   ※



 一年前のその夏。

 飯島康人の強い推薦によって、黒瀬楯の採用が決まった。

 面接内容自体はぼろぼろだった。特に最後に彼女が放った暴言はかなり印象が悪く、総務部長は難色を示しつづけていた。

 ほかの重役からは「嫁探しか」なんて揶揄やゆされたりもしたが、飯島はひたすら彼女の将来性について説明を繰り返した。暴言の件も、自分が圧迫しすぎたせいで起きたことだと頭を下げた。

 そして最終的には立花を味方につけ、説得は成功した。


「いや、本当にあのときの黒瀬はおっかなかったな」


 テーブルの上には、昔話のあいだに頼んだ刺身の盛り合わせなどが広がっている。アルコールも、ビールから思い思いの飲み物に変わっていた。

 飯島はウーロンハイを片手につづける。


「俺があの子たちだったら、確実にちびっていた」

「汚いこといわないでくれます?」


 じゅんはカシスオレンジをあおり、口を尖らせる。目がちょっと座っているのは、酔いが回りかけているからだろうか。物言いも、ふだんよりさらにラフだった。


「ビール飲んでるときだったら、瓶でぶん殴ってるところですよ」

「おっかないっていうのはそういうところだぞ」


 飯島は大笑していた。

 楯が驚いたように見てくる。


「主任がこんなに口開けて笑ってるの、初めて見たかも」

「……そうか?」

「なんかズルくない? こっちは恥ずかしいのに、そっちは楽しそうで」

「どこかずるいっていうんだ」

「全部ズルいですよ」


 ほうっと息を吐いてから、彼女はいった。


「まあ、でも……このタイミングだからいえることもあるかもしんないですね」

「タイミング?」


 昔話をしたからか。酒の席だからか。

 楯の視線がにじり寄る。


「ずっといいたかったです」

「なんだ。あらたまって」

「主任」


 幾度となく呼ばれてきた肩書き。

 それが今、何かが深くこもった響きをしていた。


「ありがとうございます。私を選んでくれて」


 飯島は、周囲の音が一瞬にして遠ざかっていくのを感じた。

 ただ鼓動だけが耳を打っている。それは自分のものだろうか、それとも目の前の女のものだろうか。どくどくと早い。血が巡り巡る。そのくせ、身体は石になったかのように動かない。思考が脈拍に追いつけない。

 楯の目。

 幾重にも連なる虹彩の輪の中に落ちていく。

 その中心ひとみに吸い込まれていく——。


「……はっ」


 飯島は目をそらした。鼻で笑うのがやっとだった。


「どうして俺がおまえを選んだことになっているんだ。ちゃんと面接官全員で話し合ったさ」

「そうなんですか」

「あのとき、おまえは頑張って自分を表現した。それが評価された。それだけだ」

「そうですか」

「なんだ。何かいいたげだな」

「べつに? とりま、これからもお願いしますね」


 そうすべてを見透かしたように片笑む。


 楯は、ひんやりと温かいまなざしをしていた。



                   ※



 そこは、分譲戸建てが並んでいる区画にある一軒家だった。

 アクリルの表札には『KUROSE』と印刷されている。

 深夜のため、なるべく音を立てないように玄関の戸を開き、黒瀬楯は帰宅する。

 シューズボックスの上には、一本の造花が飾られている。「ただいま」と造花にささやいてから、その近くに防犯ブザーを置いた。

 廊下や二階は真っ暗だった。ダイニングルームからは光がもれているが、両親は眠っている時間帯なので、おそらくそこにいるのは姉だろう。


「おいすー」


 ドアを開けると、姉の黒瀬療くろせりょうがスマートフォンでアニメを見ていた。

 テーブルの上につまみと缶チューハイを置き、こちらに背を向けて椅子の上で膝を抱え、ときおり肩を震わせている。イヤホンをしていて聞こえていない様子だ。


「オーイ。お姉、無防備すぎっしょ」


 楯は彼女の背後にそっと近づき、怪盗のごとくうずら卵の燻製を一つ奪い去った。頬張りながら、してやったりという顔をする。


「おかえり、楯。けっこう早かったじゃん」


 気づいた療が、イヤホンを外しつつ顔を上げてくる。特に怒ってはいなさそうだ。


「そお? こんなもんじゃね?」

「このまえは終電ギリギリだったでしょ」

「あー、夏菜子先輩たちとの女子会のときか。あれは二次会でカラオケとかいってたし」

「ふうん。今回は違うの?」

「主任と飲んできた」

「マジで?」


 療はセルフレームの眼鏡をかけ直し、目を丸くしていってきた。


「主任って、あんたがいっつも主任主任主任っていってるあの主任?」

「ほかにどの主任がいんの」

「いや、いないけどさ……ていうか、サシ?」


 楯が無言のサムズアップで答えると、療は唸ってしまった。


「へえ。意外っちゃあ意外だな。なんか楯の話を聞いてると、その主任って肉を食らう心意気がないというか、あんたみたいな女とワンオンワンするタイプに思えないんだけど」

「今日は黒瀬デーだったから。ガン攻めしてやった」


 療に拳を突き出してから、楯は半笑いで反省の色を浮かべる。


「ゆーて、いろいろ攻めすぎたかもしんない。最後トイレで吐いちゃってたみたいだし。そんな飲ませてないし、顔色も悪くなかったんだけど」

「弱いくせに顔に出ないタイプなんでしょ。にしたって、部下の女に飲まされてゲロる男はちょいとキツくないかと思うんですがね」

「ハァ? そんなとこもカワイイじゃん」

「カワイイって。一回りくらい歳の差あるんじゃなかった?」

「十一こ上」

「たっか。考えてみ? 楯が小一のときに高校生でしょ? ロリコンやんけ」

「いいじゃん、べつに。こっちは気にしてないし。アレだってアレ、なんだっけ。お姉が好きなさあ……」

「ギャップ萌え?」

「あー、それそれ。マジで萌え。仕事はすごいのに、って感じで」

「もうなんでもいいじゃねーか。蛇化現象ここに極まれりってか?」

「現象っつーか、蛇そのもの?」

「巻きつきも丸呑みもいけまっせって? はぁ……楯だったら、もっと若いイケメンちぎっては投げちぎっては投げできるのにね」


 療はそうあきれたあとに、優しい笑みでいった。


「まあ、でもいいか。あんたが楽しそうでお姉ちゃんは嬉しいよ」

「そっちはどうなの」

「私?」

「年下の彼氏。名前なんつったっけ」

「何回いわせんの? 拓海たくみくんだって」

「ハイハイ。いわれて思い出した。興味ないからすぐ忘れんだよね」

「むかつく妹だ」


 うんざりした顔でいうが、療はすぐに余裕綽々とつづけた。


「こっちはもう、向こうがウチにメロメロだからね。それこそ可愛いもんよ」

「自分でいうなっつーの」


 そう笑いつつ、楯はダイニングを後にしようとする。

 療はその背中に投げかけた。


「あんたもメロメロなんでしょ? その主任に」


 楯は立ち止まった。振り返り、口の動きだけで返答をする。

 彼女が消えたあとで、療は乾いた笑いを一つだけ吐いた。


「べつにオフレコでもないでしょ。『超好き』って」



                  ※


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