(10)2021:ストレンジマン ①



                  ※



 ウェンディの取材より二週間後。

 その日、ベル・エ・ブランシュでは結婚式が挙げられていた。

 カリヨンの鐘が祝福のを鳴らしていた。頭上は申し分ない晴れ空だ。新たな夫婦の門出に、世界が用意していたプレゼントのようだった。

 チャペルのバルコニーから、下に集う参列者ゲストらにむけて、新郎新婦が手を振っている。表情は感謝と幸福に輝いている。

 飯島はその様子を眺めていた。

 近くでは、宮木夏菜子がハンカチを手に涙ぐんでいる。


香苗かなえさん、大地だいちさん。本当におめでとうございますっす……」


 担当した挙式なのだから、感動もひとしおだろう。

 そう押し出した言葉は、真心に溢れていた。


 隣には楯もいる。

 彼女がつぶやく。


「きれい」


 ——ああ、本当に美しい。何ものにも代えがたい、愛の輝きだ。


 飯島の中にも、しだいに込み上げるものがあった。

 ぐっと堪えてその場を離れる。


 消えていく背中を見つつ、楯がいった。


「主任も夏菜子先輩みたいに泣けばいいのに。誰もバカになんてしないですよね」


 横溝麻里が近寄ってきて答えた。そよ風が、さらりとしたショートヘアを梳く。


「飯島くんにもプライドというものがあるんじゃない? 女の前で涙を見せるわけにはいかない、みたいな」

「ふうん。主任もいっちょまえにオトコなんだ」

「黒瀬。あなた、彼を何だと思っているのよ」

「えー? 知りたいですか?」

「いいわ。興味ないから」


 本当に興味がなさそうに横溝は前を向く。

 きゃはは、と小さく笑ってから、楯は彼女にならった。

 すると、人だかりが盛り上がっているのが見えた。


「あっ、麻里さん。新婦様がブーケトスやりますよ」


 スーツをつまんで呼ぶのと同時に、わっという声とともにブーケが放物線を描いて宙を舞う。

 その幸せのリレーバトンを、楯は見ていた。





 目の潤みが消えたことを確認して、飯島が戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。

 チャペル前の芝生の広場では、今もなお祝宴が続いている。

 そこへ歩を進めだしたときだった。

 白亜の門のところに、二つの人影が見えた。

 一人は守衛だ。長年勤めてくれている高年の男性。

 もう一人は誰だろう。みすぼらしい風体の男だった。スーツは着用しておらず、清潔感のない格好をしている。

 明らかに不審者だ。参列者にはとても見えない。

 守衛は彼と揉めているみたいだった。

 そこは会場からは陰になって見えにくいが、万が一にも参列者の目に留まれば、何事かと結婚式に水を差してしまう。

 飯島は二人のほうへと駆けていった。


「どうしたんですか?」

「飯島くん? いやね、なんかこの人ふらふらと入り込んじゃったみたいで。なかなか帰ってくれないんだよ」


 困った顔の守衛に続いて、男を見る。

 年のころは四十代だろうか。髪と髭が伸び放題のせいで、顔の造形がつかみづらい。目元の皺はナイフで切れ込みを入れたかのように深く、痩せた胸板は老いた軍鶏しゃもを想像させた。

 不審な男はチャペルのほうをぼんやりと眺めつつ、何かをぶつぶつといっている。

 飯島は彼を問い詰めた。


「あんたはなんだ。ここは結婚式場だ。関係ないなら立ち去ってもらう」

「ここはいい場所だ。そうだ。ここに決めた」


 男はまったく飯島のほうを見ようとしない。かすれた声には妙な熱があった。


「話を聞け。あんたはなんなんだ」

「とても美しい場所だ。きっと喜ぶに違いない」


 不気味な独り言だ。

 このままでは埒が明かないと、飯島が舌を弾いたときだった。


「——主任? どうしたんですか?」


 後ろから声がした。

 そこに黒瀬楯がいた。

 おそらく、飯島が門へ方向転換する姿をたまたま発見していたのだろう。気になって追ってみたら、なにやら揉めている。心配になり、声をかけてきたという具合か。

 しかし、部下をこんな不審者に近づけさせるわけにはいかない。


「黒瀬……おまえは下がっていろ。警察に通報する準備だけしておいてくれ」


 そう目を離した隙だった。

 男は登場した楯をまじまじと見つめたあと、突然に叫んだ。


「——ユイ!!」


 その痩身からは思いもよらない力で飯島を押しのけて、楯めがけて突っ込んだ。

 彼女は両肩を鷲掴みにされる。柔肌に男の爪が食い込み、驚きと苦痛に表情を歪ませた。


「う、くっ」

「ユイ! ユイ!」


 押し倒して襲おうかという勢いだった。


「なっ、何をするんだおまえ! そいつから離れろ!」

 

 飯島は負けじと楯を奪い返し、かばうように抱き寄せる。女性にしては大きいと思っていた体は、意外なほど簡単に腕の中に収まってしまった。「主任」と小さく声が聞こえたが、そちらを見る余裕はない。


「ユイ……ユイ……!」


 男はしだいに膝をつき、四つん這いになって泣き出してしまう。

 飯島は肩で息をしながら、その様子を見下ろすことしかできなかった。


「もう平気です」


 そう楯が飯島の腕をそっと解いたのは、少ししてからだった。

 男にゆっくりと近づいていく。引き止めようとするも彼女は聞かず、彼の前に屈み込む。そして、あろうことか慰めるように頭を撫でた。


「黒瀬」

「大丈夫です」

「そんなわけあるか」

「大丈夫。泣いているだけです。この人」


 男はユイという名を繰り返しつつ、楯のスーツスカートの裾をつかんでいた。

 すがるような、祈るようなその姿に、飯島は言葉が出てこなかった。

 楯は優しくいい聞かせる声でいった。


「おじさん。私はユイじゃありません。ジュンっていいます」

「ユイ……」


 男は顔を上げる。目は真っ赤だった。


「おじさんの名前はなんていいますか?」


 すると、男は声を震わせて口を曲げた。

 何をいっているんだというふうに。


「カネダセイジだろう。おまえはカネダユイ。俺の妻じゃないか」



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