(36)『まちがいさがし』 ②
翌日には結婚同意書を手に入れて、清治は塚本玲子のもとへ向かった。
優衣には通常どおり学校へいかせている。清治のほうも日勤の最中だった。
インターホンを押すと声が聞こえた。
「どちら様」
「金田清治です」
少しして玄関が開かれた。
昨日と変わらず、塚本玲子は感情の読めない視線を向けてきていた。
「中に入りん」
「どうも。ご無礼します」
通されたダイニングには、薄ぼんやりとした照明だけが灯っていた。
二人は向かい合ってテーブルに座った。
清治が書類を渡すと、塚本玲子は必要事項を書いていく。そのよどみない動作の中に、娘を送り出す親の情感は感じられなかった。
「まあじき引っ越そうて思っとるじゃんね」
塚本玲子は印鑑を持ち出しながらいった。
「だもんで、はよきたほうがええていうたんやけど」
「……その引っ越しには、優衣を連れていくつもりだったんですか」
彼女は答えなかった。かわりに質問で返してきた。
「最近、あの子が小綺麗になっとった。似合いもしん男もんのスカジャン着て……。あんちゃんとこおったんか」
「そうです。よう見とりますね」
「優衣のどこに惚れたん?」
塚本玲子は清治の回答を待たずにいった。
「あの目だら」
「そう思っとるんでしたら、思っとってください」
「なあ? あのまなざしはいかん。そう思わん?」
「どういう意味ですか」
「あれは【悪魔の目】」
「……はあ」
「あの目は、出来損ないの身体障害じゃんね」
一瞬、理解できなかった。
「……おい、いってええことと悪いことがあるがや」
清治は腰を浮かしかける。
それでもかまわず塚本玲子はつづけた。
「——美しすぎる。そういう欠陥。まともに生きられん障害者だがね」
「だもんで……」となおも何かをいおうとした彼女だったが、結局その口から次の言葉が出てくることはなかった。
清治も黙っていた。返す言葉もないというより、返す価値もない戯言だと思った。よくもこんなモラルの欠片もない母親から、あの健気な心根の娘が生まれたものだと感動せざるをえない。
「書けたわ。これでええ?」
塚本玲子は書類を返してきていった。
清治は中身をチェックして立ち上がる。
「ええでしょう。助かりました」
「もう用事は済んだ?」
「はい」
玄関まで歩いていくと、彼女はついてきた。
とはいえ、清治にはもう何もいうことはなかった。
最後に頭を下げて立ち去ろうとしたときだった。
「——あの子には、ベールかぶせたってな」
後ろからいわれた。
「当然です」
短く返して、清治は階段を下りていった。
勤務を終えてフタバ荘に帰ると、優衣が高校の宿題をしていた。
制服から着替えもせずに、ちゃぶ台の上に学習ノートと教科書を広げている。長いあいだまともに勉強できていなかった分を取り戻そうと、頑張っているのを知っていた。
彼女はすぐに清治に気づいて笑いかけてきた。
「清治。おかえり」
「おう、ただいま。優衣、学校はなんもなかったかや。いわれたんと違うか?」
清治は自身の首を指差す。
優衣は苦笑いを見せた。
「寺内にめちゃんこ心配されたわ。またあとで全部教えるていっといたで、籍入れられたら話そうて思っとるじゃんね」
「ほうか。俺もいよいよ松さんにいわなかんくなったで、気が重いわ」
清治はがしがしと髪を掻く。
すると、優衣は
「そっちはどうだったん? ……お母さんは書いてくれた?」
「ちゃんと書かせたったがや。ほれ、見やあ」
結婚の同意書をノートの上に置いてやる。
優衣はそれをまじまじと見つめた。
塚本玲子の名前を触って、
「昔とおんなじ。ちゃんと書くとき、はねがおっきくなるの」
と小さくつぶやく。
ただの書類をまるで特大の誕生日プレゼントかのように眺めていた。
「これで俺らは夫婦になれる。今度、婚姻届を出しにいこまい」
そう清治がいってやると、優衣はいても立ってもいられないというふうに顔を上げた。スクールバッグのほうへと這っていく。
中を漁って取り出したのは、チラシの裏紙だった。
それは、かつて深夜の交番で清治が渡したものだ。
「なにい。ほんなもんまだ持っとったんか」
清治は笑いまじりにいう。
裏紙に書いてあるのは、ボールペンのメモ書き。
塚本優衣という名前。
生年月日。
塚本家とこの部屋の二種類の連絡先。
フタバ荘を指し示す簡易地図。
優衣は皺を伸ばして、それに何かを書き足す。
そして立ち上がり、手を広げてくるりと回った。
「今日からここがあたしの家。あたしの帰るべき場所」
天の神様に宣言するように、裏紙を両手で高く突き出す。
「ほいで、これがあたし。あたしの全部がここに載っとる」
塚本家の連絡先に打ち消し線が引かれていた。
それはさらに苗字にも引かれ、かわりに金田と書いてあった。
「どえりゃあ幸せじゃんね」
優しい声でいって、優衣は清治を見つめてくる。
「……」
彼は見つめ返しながら、湧き上がる思いを噛みしめていた。
——何が出来損ないだ。
何が欠陥だ。
何が悪魔の目だ。
この目は、こんなにも愛おしい——。
優衣は、ひんやりと温かいまなざしをしていた。
※
〈第二章・終わり〉
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