(41)春の待合所 ①
※
——二〇〇一年。名古屋。晩冬。
「ようやく調子が戻ってきたわ。金田が急に結婚したいいよるもんで、びっくらこいて腰いわしたときはどうなるかと思ったが」
巡査部長の
ここ最近、交番にいるときはだいたいこんな具合にぼやいてくるのだ。
「松さんがひっくり返ったんは俺のせいじゃねえがや」
「おみゃあさんのせいだがあ」
「なにい。人が嫁もらって何がいかんのですか」
「その嫁が問題なんだわ」
清治はむっとした。
「優衣のどこがいけすかんのですか」
「そういう意味だのうて……。金田は優衣ちゃんのことてなると、すぐカッカするでいかんわ。あの子がええ子なのはわかっとるて。まだ女子高生てのがいかん。未成年だがや」
「愛に年齢は関係ないて、どっかの誰かがいっとりましたよ」
うるさい上司を払うつもりで左手を振る。
その薬指では真新しい光が輝いていた。
「……まさかとは思うが、もう手ぇ出したりしとらんだろな?」
松尾が疑るように見てくる。
……清治は口笛を吹いてごまかそうとした。
心の底から失望した顔でいわれた。
「……おまえ、自分でワッパかけろ。俺が連れてったる」
「俺は悪くねえがやあ! 優衣が可愛すぎんのがいかんのだてえ!」
必死に言い訳を探して出てくるのは、ただの惚気じみた責任転嫁だった。
制帽をずらしてがしがしと頭を掻く。
「ほれに、ちゃんと籍入れとるんだで淫行にゃあ当たらんでしょうが」
「考えなしにもほどがあるわ、たあけ」
「大丈夫ですて。さすがに腹ぼてで学校いかすわけにゃいかんし、金も少しずつ貯めていかなかんで、そこんとこはちゃんと考えとりますよ」
「本当か? いつもの調子ええセリフじゃいかんぞ」
「松さんは心配性すぎんだが」
清治はへらへらと笑う。近ごろは頬が緩みっぱなしだった。
すると——どんっと肩を殴られた。
痛みに口元が引き締まる。清治は思わず文句をいおうとして……やめた。
松尾が厳格な表情で見つめてきていた。
「金田。おまえは優衣ちゃんの人生をなんだと思っとるんだ」
本気で説教するときの声だった。
「優衣ちゃんの身にあったことは聞いとる。おまえはようやったとも思う。……だがな、大事なのはこれからだがね」
「……」
「一人の女の子の人生をひっ捕らえたんだ。あの子はおまえのことを想ってついてきてくれとる。まだ十七だろう。色んな未来の選択肢があったかもしれん。それを全部おまえのために捧げようとしてくれとんだ。十七のとき、おまえは何しとった。どうせとろくさい喧嘩ばっかしとっただろう。同じ歳で覚悟決めとんだ、優衣ちゃんは」
清治は目を合わすことができなかった。すべて事実だからだ。行き場のない感情を拳で紛らわしていた自分が子どもみたいに思えた。
「浮かれとってもええ。だが、芯だけはちゃんと持っとれ。どんなときでも、あの子がおまえと一緒になってよかったと思えるようにしなかんがや。絶対に幸せにしたらなかんがや。そいつをわかっとるんか? 金田」
「わ、わかっとりますて」
「正直なところ、今まで好き放題しとったせいでおまえの評定は最低だ。挽回に時間がかかるんは間違いない。わかっとるいうんなら、まずは殴ってケリつけるところから直せ。相手がどんな犯罪者でもだ。優衣ちゃんだて、旦那がチンピラこいて給料もらっとるなんていわれたきゃないだろ」
清治は拳を震わせた。怒りではなく恥ずかしさからだった。
「……ありがとございます、松さん」
膝に手をついて頭を下げると、松尾は肩を叩いてくる。今度は励ますような強さだった。
「頑張りゃあよ、金田」
清治がぐっと頷いたときだった。
がらがらと交番の戸が開いた。
見れば、制服姿の女子高生二人が白い息とともに入ってくるところだった。
一人は背に『名古屋』と刺繍の入ったスカジャンを、もう一人はダッフルコートを上に重ねており、「みゃ~、さぶいさぶい」とこぼしながら交番内の石油ストーブに手をあてはじめる。ずびっと鼻をすすっていた。
「……おい、
彼女たちは、寒波がひどい日は下校途中で耐えきれなくなって、交番に緊急避難してくるときがあった。冬が長引いているのはわかるが、今週でもう二回目である。
「旦那さんはケチンボじゃんね。奥さんが凍えとんのに。にゃー? 遥?」
優衣がいうと、寺内が甲斐性なしを見る目をしてきて応える。
「まあかんわ。今からでも遅くないで、家出てうちこやええよ、優衣」
「おみゃあらなあ。なぁにいっとりゃあすか」
二人のコンビネーションにたじろぐ清治。
頼れる上司にむかって助けを求めた。
「松さんからもなんかいったってくださいよ」
「優衣ちゃんたちようきたなあ。茶出したるもんで、ちいと待っときゃあ」
「ありがと。松さん」
「松さんはええ男だわ。どこぞのチンピラ警官と違って」
気色悪いくらいの満面の笑みで、松尾は休息室のほうへ消えていく。
ちょうど同じくらいの年頃の娘が猛烈な反抗期を迎えているらしく、彼は懐いてくれている優衣たちのことを甘やかしていた。明らかに職務から逸脱している。先ほど説教を授けてくれた人間の行動とは思えない。
「……まあ、今さらぐちぐちいうてもしゃあねえか」
追い返すのは諦め、清治は優衣たちに丸椅子を寄こしてやる。
「ほれ、こいつに座って足も温めたりゃあ。さっぶいのに短いスカート履かされてかわいそうだがや」
「清治もありがと」
優衣たちは丸椅子を受けとって、ストーブの周りに腰を下ろす。
寺内は足を組み、胸の前で一本結びの三つ編みの先を触りながら鼻で笑ってきた。
「あんちゃんはわかっとらんなあ。うちらはスカート長くしたら負けなんだがん」
「寺内はいくらでも短くしときゃええ。大根はさぶいほうがよう育つでな」
誰が大根足だ! と怒る寺内。
それを無邪気に笑う優衣に、清治は続けていった。
「優衣はもっと長くてええぞ。膝下でええくれえだ。学校の野郎連中がたかってきよっても面倒くせえでな。俺も一匹一匹に職質かけて虫を払っとるほど暇じゃねえもんで」
「地味に怖いこといいよるわ、このあんちゃん」
寺内がつぶやく。
優衣はきゃははと笑った。
「男子があたしにいい寄ってくるわけないじゃんね。この子のおかげで守られとるもん」
彼女が左手を上げて見せるのは、薬指の結婚指輪だった。
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