第三章(2021年 東京)
(37)願い
※
——二〇二一年。東京。
「…………」
重苦しい空気をそのまま受け止めながら、
「私、なんにも知らない」
辛そうな顔で楯がつぶやいた。
「こんな悲しい事件が名古屋であったんだ……」
彼女にはウェブ百科事典のページを見せている。
そこには『名古屋ヤング夫妻事件』の概要が記されているはずだ。
当時の状況を淡々と説明しているのみではあるが、それだけでも精神的にくるものがあるらしい。
無理もないと飯島は思った。
ただでさえ刺激が強い内容であるうえに、彼女は夫婦の愛に寄り添うことを職業にしている人間、かつ被害女性と同年代の同性である。投影のしやすさは、そのまま胸を刺すものの鋭さに変換されるだろう。
「ニュースでもやっていたんですか?」
楯が顔を上げた。
飯島は頷く。
「やっていた。連日バッシングやらなにやらで、テレビはうるさかった。事件に対する意見を街頭インタビューしていた中継で、答えた人たちが口論を始めたのを見たときは、さすがに怖かったな。金田清治のとてつもない怒りが人々に燃え広がったみたいだった」
「私、そのころは子ども向けアニメばっか見てた気がする」
「五歳とかだろう。目が向かないのはしかたない。そもそも親御さんが見せないようにしていたかもしれないしな。それに……」
「それに?」
「あの事件は、きっと社会にとって劇物すぎたんだ。何かの教訓として残すにしても、語り継ぐには惨すぎた。誰だって見たくないし、聞きたくないだろう。報道自体は潮が引くみたいにされなくなっていったよ。火が点いていたのは一か月もなかったような気がするな。だから、覚えてなくてもおかしくないんだ」
「そんなもんなんですかね……」
楯は納得したくないといった様子だ。
飯島はそんな彼女の顔を見た。
そのとき。
ふいにイメージに視界が乗っ取られた。
それは、黒瀬楯が当時の彼女のように残虐な暴行を受けて死亡している光景だった。
傷に塗れた体は無惨に打ち捨てられ、生気のない瞳は乾ききっている——。
「……っ」
ぞっと背筋に悪寒がほとばしった。
……そんなことは絶対にあってはならない。
それは地獄そのものだ。
「これで今回の事情はだいたいわかったね」
蔡がいってきた。
ひそかに心を落ち着かせつつ、飯島は返す。
「はい。ありがとうございます」
「金田は本当にかわいそうなやつなんだ。人殺しは当然いけないことだけど、私は当時の彼を簡単に否定できない。愛する人とあんな別れ方をして、正気を保っていられると思うかい?」
「ええ……」
飯島は静かに答える。
すると、蔡は意を決したように切り出してきた。
「それで……ここからは私のお願いなんだけど」
「お願いですか」
「金田は、あんたのとこの結婚式場を気に入っちゃったみたいなんだよ」
——ここはいい場所だ。
——とても美しい場所だ。
そうつぶやいていたのを思い出す。
蔡は続けていった。
「金田は優衣さんと結婚式を挙げられなかったんだ。おたがいにそういった資金を頼れる相手がいなかったみたいで、お金がなかったんだろうね」
「……」
「だからあの男は……今になって、式を挙げられるところを探しているのかもしれない」
——そうだ。ここに決めた。
——きっと喜ぶに違いない。
再び金田清治の声が呼び起こされる。
飯島は眉をひそめつつ尋ねた。
「それは……精神のほうは問題ないんでしょうか? 亡くなった配偶者との結婚式を考えているということですよね? 事件のショックが影響していたりとかは……」
「正直なところわからない。ふだんはふつうに受け答えできるんだ。声も大きくないし、ハキハキとはいかないけど。仕事だって見つかると思っている。……でも、きっと優衣さんのことになると抑えきれない部分があるんだろうね。お嬢ちゃんにつかみかかったって聞いて、私はびっくりしちゃったよ。本当にいつもはおとなしいんだ」
「一緒にいる蔡さんがそういうなら、まあそうなんでしょうけど……」
飯島は楯をちらりと見やってからつづけた。
「それで、お願いというのは何でしょうか?」
蔡は一息置いてからいってきた。
「……もしかしたら今後、金田がまた結婚式場にふらふらといくかもしれない。そのときに、できたら追い返さないでやってほしいんだ」
「今日みたいに、ですね」
「あのあと、パトカーの中で金田とあの式場の話をしていたんだ。……金田は嬉しそうだった。優衣さんが憧れていたチャペル、そのまんまなんだってね。眺めていると心が落ち着くといっていた」
「そうですか」
「変なことは起こさせないようにするからさ、どうか仕事が見つかって金田の心と環境が安定するまでのあいだ、お願いできないかい?」
再光会の職員としてできる行為の範疇を越えているのは、間違いないだろう。
それは彼女自身も理解しているようだった。苦しそうに訴えかけていた。
「めちゃくちゃなことをいっているのはわかっているよ。わがままで飯島たちの仕事を邪魔することになるからね。無理だというなら諦める。……でも私は、金田の境遇を思うと少しでも穏やかでいてほしいんだ。金田は、神様に見捨てられていい男じゃない」
人との繋がりを大切にする蔡らしい願いだと、飯島は思った。
程度こそ違えど、この賃貸アパートに引っ越してきたときもこんなふうに世話を焼かれた記憶がある。
飯島は楯のほうに顔を向けた。
「黒瀬。おまえはどう思う」
「金田さんを受け入れて、ケアを手伝うかどうかって話ですね?」
「ああ。現状、何かトラブルが起きるとすればおまえ絡みだ。俺はおまえがつかみかかられたとき、本当に怖かった。この願いを断る理由はある」
「私は……」
楯は思い返すように目を閉じてから、開いていった。
「私はあのとき、金田さんの表情を目の前で見ました。そのあとに流した涙も、一番近くで見ました。最愛の人に再会できたような顔と、とても透明な涙でした。本当に愛してたんだと思います。だから……私が金田優衣さんに似てるんだとしたら、傷つけられることは絶対にないです」
「そうか」
「私はウェディングプランナーとして……まだ本番も全然の新米ですけど、あの人が抱いてた愛をシカトなんかできません。協力したいです」
「そうだよな」
飯島は顔を伏せて笑んでいた。
「……?」
「黒瀬はそういうと思ったよ」
「なに笑ってんですか。主任はどうなんです? 私には
語るうちに熱が入ったのか、楯はにらむようにして聞いてくる。
飯島は顔を上げて見つめ返した。
「おまえに全部いわれてしまった。格好つかない上司で悪いな」
「はあ……」ときょとんとしたあとに、楯の顔が
「え? ってことは? つまり?」
「協力しよう。みんなには俺から掛け合ってみる」
「さっすが主任! 断るなんていいだしたら、ぶん殴って指示出させてたところですよ! 私パンチングマシーン百五十キロあるから、泣いちゃってたかも~?」
気持ちのいい笑顔で拳と手のひらを打ち合わせる。パン、パン、と色白な手にはそぐわない豪快な音がしていた。
ははは……と引きつった笑いを浮かべつつ、飯島は蔡に向き直った。
「蔡さん、聞いてましたよね。とりあえずは二人、説得成功ですよ」
「飯島……」
まだ正式に決定もしていないのに、すでに感極まっている様子だった。
彼女はとっさに日本語が頭から飛んでしまったのか、「
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