(45)一本道とコルクボード



 飯島は後悔していた。

 何も見ずにいつもどおり頼んだガテマラの日替わり弁当が、どう考えてもボリューム過多だったからだ。

「デカ盛りブームに乗ってみたんだよ」と店主は笑っていたが、硬派な純喫茶を売りにしているくせに、妙なところで流行に乗ってくる彼のセンスが理解できない。

 飯島が年々萎んでいく胃袋の不甲斐なさに辟易する一方で、早々にランチを終えた楯は彼にスマートフォンのカメラを向けて遊びはじめた。


「頑張って食べてんのウケるんですけど。撮っとこ」

「そんなの撮ってもおもしろくないだろ。あと、見るのもやめてくれ。視線がきつい」

「ムリです。見てます」

「くっ……」


 一蹴され、飯島はプレッシャーに弄ばれながら口を動かしつづけるはめになった。

 男が気まずそうに食事をしているだけの光景なのに、楯はずっと目を細めていた。

 そのあと、やっとのことで皿を平らにすると、楯は飯島の横に移動してきてウェンディを広げた。


「今月号はウェディングアクセのブランド紹介とぉ……へー、和装と洋装の結婚式の比較とかやってるみたいですよ」

「なんだ。特集のインタビューを見るんじゃないのか?」

「まあまあ。せっかく買ったんだし、他のところも見ていきましょうよ」

「自由なやつだな」


 楯は「あ、このティアラかわいい」や「和装はまだちょっと大人っぽすぎ?」などといいながら、ときおり「ね、主任」と飯島の顎を持ち上げるように見てくる。気づけば肩が密になる位置にあった。

 飯島は眉を寄せていう。


「なんで俺に聞くんだ、黒瀬」

「意見を聞いたらダメですか?」

「だめとはいわないが」

「ならいいじゃん。聞かせてくださいよ。——私には主任しかいないんですから」


 楯は手首を返して指差してくる。そして、飯島が息を吞むのを確認してからつづけた。


「職場で話ができるメンズが」


 嫌味と苦々しさをたっぷりブレンドさせて返す。


「そうか。なら答えてやらないとな。せっかく可愛い部下が頼ってくれているんだから」

「うれしかろ?」


 あは、と笑われた。こういうときの楯は本当に楽しそうだ。

 調子を狂わされて視線を逃がすと、ガテマラの店主と目が合った。彼はカップを拭く手を止めて、楯と同じように手首を返して指差してきた。茶目っ気のあるしぐさはしかし、白髪交じりの男にされると受け入れがたいものだ。

 飯島はため息とともに答える。


「ああ、嬉しくてしかたがない」

「じゃあまだまだ聞いちゃっていいですよね」


 楯はページをめくり、今度はウェディングドレスの種類を紹介するコーナーに移った。


「たとえばぁ……ドレスはプリンセスラインとAライン、どっちが好きですか?」

「俺の好みなんか聞いてどうするんだ」

「いいから。答えてみてください」


 いたずらっぽいまなざしで、楯は薄く笑う。ウェディングドレスのモデル写真に白い指を這わせている。

 それは新婦の美しさを最大限に引き出す重要なものだ。

 目をつむり考える。

 目蓋の裏に自然に現れたイメージのまま、抗わずに飯島は口を開いた。


「そうだな……黒瀬は背が高くて立ち姿も美しいから、マーメイドラインのドレスがいいんじゃないか。髪色もきれいに映える。きっとよく似合うだろうな」


 イメージから現実の黒瀬楯に視線を移す。

 彼女はあまり見ない表情をしていた。笑みはそのままなのだが、どこかぎこちない。


「……主任。どっちが好きか聞いただけなんですけど」

「ああ?」

「なんで私でイメージしてるんですか?」

「……っ」

「しかもどっちでもないマーメイドラインって。もしかして……ガチっちゃいました?」

「おまえの話の流れだったろうがっ」

「あは。声でか」

「……マーメイドラインが出たのは、プランナーの職業病だ。似合うと思ったんだからしかたないだろう」

「ふうん?」


 挑発的に見つめてきたあとに、楯はいった。


「じゃ、参考にさせてもらいますね」

「……それはかまわないが、いつか選ぶときは自分で決めるんだぞ。おまえ自身が身にまとう特別なドレスだからな。人に流されないようにしろよ」

「はい。大丈夫です。流されません。百トンくらいの重し入れときましたから」

「そうか? まあ……わかっているならいい」


 何か引っかかるものを感じつつも、飯島は腕時計を見やる。

 ずいぶんと話し込んでしまったような気がする。案の定、ランチ休憩の時間が終わりに近づいていた。


「黒瀬。もう時間がないみたいだ。ベル・エ・ブランシュに戻るぞ」

「え? って、マジじゃん」

「インタビュー特集はまた見ることにしよう。しかたない。寄り道をしすぎたな」


 飯島は席を立つ。

 その後ろで「こっちは一本道直進してんだけど」とつぶやかれた声は、彼の耳には入らなかった。

 二人分の会計をまとめて済ませ、飯島は店の外に出ていく。

 楯はその背中を追っていこうとした。

 すると、店主が呼び止めてきた。


「君って式場の子?」

「え? あー、はい。飯島主任の部下やってます」

「やっぱりそうかい」

「なんかありました?」

「いやあ、なんかっていうか。ありがとうっていいたくてね」

「んー……なんで? 意味わかんない」

「飯島くんがあんなふうに人としゃべってるの、初めて見たからさ」


 記憶の引き出しを開けていくみたいに、店主は無精髭をさすっていった。


「彼とはけっこう長い付き合いなんだけど、いつも一人できて、日替わり弁当を食べて、漫画めくって帰っていくだけだったんだ。話しかけても、表情もあんまり変わんなくてね。聞いたら『べつにふだんもこの感じです』なんていうし、ウェディングプランナーとしてそんな具合でやっていけるのか心配になるくらいだったよ」

「はあ」

「それが去年の夏ごろかな、少し雰囲気変わったなって思いはじめた。今年の春からはさらにそう思った。以前にも飯島くんときてくれたね。あのときにも思っていたんだけど、今日ではっきりわかった。表情が全然違ったんだ。顔をしかめたり笑ったりできる男だったんだなあって感動してしまったよ。特にね、君のドレスを語っているときの顔。見ただろう? あんな優しい顔ができるんだな」

「は、はあ」

「君は飯島くんをちょっと明るい人間にしてくれた。そして、これからも変えていってくれるかもしれない。だから知人として礼をいいたかったんだ」

「えっと……どういたしまして?」


 返しがわからず、疑問符がついてしまう楯。

 店主は彼女の背後に指でつくったフレームをあてた。


「このカウンターからは、君たちのいた窓際のテーブル席がよく見える。長年、いろんな人たちがそこに座るのを見てきたよ。久しぶりにシャッターを切りたくなったな。君たち二人を見ていたら」


 店主は壁に顔を向けた。

 楯もそちらを見る。

 コルクボードが掛けられていた。

 そこには写真が何枚も画鋲で留められている。すべてカウンターから窓際のテーブル席を撮った構図だ。様々な男女が向かい合ったり、隣り合ったりしている。


「君たちの式場が近くにあるからかな? 昔から将来を誓い合った男女がここに寄ってくれる。幸せな風景を残しておきたくなってね。お願いをして撮らせてもらっているんだよ」

「へぇ……めっちゃステキですね」

「飯島くんと一緒に広げていただろう? それ」


 店主は楯が胸に抱えるウェンディを指差す。彼女が頷くと苦笑した。


「仕事の関係で手に入れたものだって、僕はわかるよ。でも、何も知らない人が見て、あれこれ話している男女の前にそれがあったらどう思うだろう? 君たちは気づいてなかったかもしれないけど、窓の外を通りすがる人たちはけっこう見ていたよ。そういう二人なんだって感じでね」

「きゃはは。勘違いさせちゃってたんだ」


 すると、店主は楯を見つめてきて尋ねた。


「——それで上等だと思っていたりは?」

「……あー」


 楯は外を一瞥する。飯島はこちらに背を向けてスマートフォンを耳に当てていた。


「わかります?」

「だろうと思ったよ」


 店主はそう笑ったあと、足元から古めかしいコーヒー豆の保存缶を取り出して、カウンターの上に置いた。その場で回転させて、ラベルを楯のほうに向ける。そこにはアルファベットで品種名が書いてあった。


「読めるかい?」

「……ブルーマウンテン?」

「彼の好きな豆さ。いつか役に立つかもしれない。モーニングコーヒーとかね。覚えておくといい」


 楯は少し目を丸くしたあと「……あは。ありがとうございます」とラベルをネイルで弾いた。乾いた缶の音がした。


「呼び止めて悪かったね。はやく戻ってあげなさい。犬みたいに待っている」

「はい。またきますね。おすわり解いてこよ」


 店主とたがいに笑みを交わし、楯はガテマラを出る。

 日に日に冬めいてきている空気が肌に触れた。店主との会話の中で人知れず微熱を持っていた顔を冷ましてくれる。

 前を見ると飯島が待っていた。


「ゴメンなさい。待たせちゃいました」

「いや、俺もクライアントと電話していたからいいんだが……マスターと何を話していたんだ? 変なこと吹き込まれてないだろうな? あの人、けっこうな変わり者だからな」

「べつに? 何もいわれてないですよ」

「そうか。ならいいんだ。いくぞ、黒瀬」

「はい」


 返事をしてから、楯は伝え忘れていたことを思い出した。


「あっ、あとゴチさまでした。今回も私で満たせましたか? 主任のプライドは」


 初めてガテマラを訪れたときに交わした、飯島に上司としてのプライドを喪失させないためにあえて奢られてあげる、という話は続いている。

 すでに何回もランチをともにしており、宮木や横溝と通っているようなカフェにもいった。平静を装いながらも期待感に頬が緩んでいたり、慣れない空気に固くなっていた彼の姿を思い出す。


「それは……もうそういうことにしてくれていい。いってしまったのは俺だからな」


 飯島はぐっと歯ぎしりを見せる。そういうところも犬っぽいと思う。

 今まで自分が当たり前に見てきた表情たち——それらもすべてガテマラ店主のいう変化なのだろうか、と楯は思った。


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