⑥難升米派遣
西暦238年、6月。
卑弥呼は、大倭連合が公孫氏の支援を受けられれば、近畿奴国が目論む狗奴国への侵攻を止めることが出来る、と思い込んでいた。
その為、熟慮する事なく卑弥呼の名前で公孫氏への手紙を書き、伊都国に常駐する大倭連合の一大率の難升米を使者として、公孫氏が太守を置く帯方郡へ派遣した。
一大率とは、太宰と同じように、文官と武官の両方の役目を負い、倭王の天帯彦を代理する、総責任者である。
天帯彦は難升米に全幅の信頼を置いていたが、難升米には難升米の野望があった。
それは、難升米自身が倭王になる事、だった。
難升米には、大倭連合が大いに乱れた時の政略結婚によって、天氏の血統に匈奴の血が混じっていた。
難升米が帯方郡に着くと、あろうことか、公孫氏の帯方郡は魏に攻められていた。
難升米は、大倭連合の倭王と倭女王に対して、近畿奴国の暴走を止めるためには、どうしても「魏」による武力の支援を受ける必要があった、と思わせることにした。
難升米は頭の中で素早く計算を巡らすと、公孫氏への大倭連合の使者としての任務を放棄した上に、あろう事か魏軍の案内役を務めて、公孫氏の滅亡に手を貸した。
公孫氏の太守を破り着任した魏の帯方郡太守の劉夏に対して、難升米は、魏軍への功績を盛んに宣伝して、魏の朝廷に朝貢したいと申し出た。
劉夏は、それは尤もだと判断し、部下に難升米を引率させて魏の都の洛陽に行き、朝廷に参内するための、手伝いをしてくれた。
難升米と牛利は、慣れない陸路を遠路はるばる、珍しい馬車に揺られながら洛陽を目指した。
洛陽に着いたが、直ぐに朝廷に呼ばれることは無く、一か月以上待たされた。
西暦238年、12月。
難升米は魏の朝廷に朝貢し、天帯彦を親魏倭王、卑弥呼を倭女王、と為す旨の詔を賜った。難升米は近衛軍の指揮官である率然中郎将、牛利は部隊長である率然校尉、に任命された。
大倭連合を倭人の宗主と認めると同時に、魏の命令系統に組み込んだと云う事だ。大倭連合が要請すれば、魏は支援もすれば援軍も出すが、その一方で魏が求めれば、大倭連合の全ての連合加盟国が出兵せざるを得ない、と言う事になってしまった。
魏は魏で、何としても倭を呉と結託させない様、如何に取り込むかを考えていた。だからこその親魏倭王であり、数多くの恩賜品であった。
更に因縁があった。姫氏は周王の子孫で曹氏と縁戚であり、曹操の息子は卑弥呼の従妹を嫁にしていたのである。
西暦239年、1月。
しかし難升米の当ては大きく外れた。何と魏の明帝が崩御し、一年間の喪に服することになったからである。
難升米は詔書と共に凱旋する事が出来なくなり、一足先に帰国を余儀なくされた。
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