②息長帯姫
西暦338年。
匈奴色が強い大和朝廷から、何とか政権を奪おうと、虎視眈々と狙っていたのが、筑紫勢力であり、奈良勢力である。
筑紫勢力は暗躍し、大毗毗(難升米)五世孫の息長帯姫を、帯中津彦と結婚させることに成功した。
奈良勢力は、卑弥弓呼の孫の建内宿祢を大臣にして、政権の中枢に忍ばせていた。
熊曽国を討伐するため筑紫の香椎宮に滞在していた時に、帯中津彦が琴を弾いて、息長帯姫が神がかりをし、建内宿祢が神託を求めたことがある。
神様は熊曽国よりも新羅国の征服を勧めたが、帯中津彦は信じなかったどころか、神様といさかいになり、琴を弾いている間に急逝した。
帯中津彦の崩御は、筑紫勢力にとっても、奈良勢力にとっても、願ってもない事態だった。この好機を息長帯姫は見逃さなかった。
息長帯姫は神が勧めた様に、熊曽の討伐ではなく新羅を親征して筑紫国に帰還し、帯中津彦の四男品陀和気を産んだ。
筑紫から戻って大和に帰京した息長帯姫は、母が異なる帯中津彦の長男と次男を、滅ぼした。
こうしてやまと朝が滅ぶと、次は筑紫勢力と奈良勢力の争いとなった。
息長帯姫は正妃としての権力を発揮し、大臣の建内宿祢を制して主導権を握った。
帯中津彦が崩御してから、帯中津彦の四男品陀和気が即位するまでは、正妃である息長帯姫帝が、春日の軽島宮で、中央集権国家として再統一した倭国を統治した。
その裏で、建内宿祢は奈良勢力と筑紫勢力の婚姻を図り、着々と基盤を築いた。
西暦357年。
帯中津彦四男、品陀和気帝が天下を統治し、筑紫勢力による大和政権が続いた。
西暦456年。
男浅津間若子五男、大長谷若竹帝が政治改革のため、氏姓制度を始めた。
大和政権は、豪族を氏(うじ)という血縁組織に編成し、政権の構成員とした。
豪族は、私有地や私有民を各地に領有して、経済的や軍事的な基盤とした。
大和政権は、氏の地位や職業に応じて姓(かばね)を授け、氏を統制した。
臣(おみ)や連(むらじ)の姓を賜った豪族が、大和政権の中枢を形成した。
大和政権の大王家は、豪族所有の農民を一部直轄民とし、直轄領を各地に設けた。
地方豪族を国造に任命し、統治権を認める代わりに、人や物や兵隊を提供させた。
西暦506年。
小長谷若雀帝が、18歳の若さで崩御した。
そして、150年続いた筑紫勢力も、王位継承者がいなくなった。
*参照 山川出版社「詳説日本史研究」
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