③袁本杼
大和政権は、奈良勢力と筑紫勢力の非常に脆い基盤の均衡の上に成り立っていた。
近畿に居た筑紫勢力の強力な王統が断絶した隙に、奈良勢力が政権を奪取すべく、攻勢を仕掛けた。
大伴大連・物部大連・許勢大臣が手分けして、後継者を探した。
その結果、袁本杼王を越前で見つけた。
男系としては、筑紫勢力が擁立した品陀和気の五世の孫、と称する。
女系によると、匈奴色の強い伊久米入彦の八世の孫、と言う。
どちらかと言えば、奈良勢力の影響力を受けやすい系統だった。
西暦507年。大和政権を引き継いだ袁本杼が、磐余の玉穂宮で、天下を統治した。
越前から上京したので、越前王朝と呼ぶ。
筑紫勢力は、何とかして奈良勢力を阻止したかった。
袁本杼が百済の願いを入れ、任那の四県を百済に賜った事が原因で、百済と新羅が争う結果となった。
西暦527年。
大和政権は近江の毛野臣に、兵を率いて任那に行き、新羅に奪われた領土を任那に戻させようとしたが、筑紫国造磐井がこれに抵抗して妨害した。
大和政権が、物部荒甲と大伴金村を派遣して筑紫国造磐井を殺したので、筑紫勢力は急速に勢いを失った。
西暦531年、袁本杼次男、建金日は勾の金箸宮で天下を統治した。
西暦535年、袁本杼三男、建小楯は盧入野宮で天下を統治した。
西暦539年、袁本杼四男、波流岐広庭は師木島大宮で天下を統治した。
西暦572年、波流岐広庭次男、沼名倉太玉敷は他田宮で天下を統治した。
西暦585年、波流岐広庭七男、橘之豊日は池辺宮で天下を統治した。
西暦587年、波流岐広庭二十一男、長谷部若雀は倉椅の柴垣宮で天下を統治した。
西暦592年。波流岐広庭三女、豊御気炊屋姫は小治田宮で天下を統治した。
この後に奈良勢力から政権を奪還した筑紫勢力が、度々の政権交代の記録として、中国の史記に倣い、宇宙の始めの混沌から政権としての実績が少ない奈良政権迄を、物語として編纂したものが古事記である。
日本書紀は、百済救済に出兵した筑紫勢力の大和政権が、唐・新羅連合軍に負け、「出兵したのは倭国であり、日本国の大和政権は無関係である」と弁明する為、唐の朝廷に提出する資料として作成したが、701年、日本根子天津御代豊国成姫天皇が実権を握ると、奈良勢力を強調するために大きく修正されて発行されたものである。
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