第九章 倭国争奪  ①御真木入彦

西暦260年、帯彦帝が天寿を全うした。


 それでも、帯方郡から援軍に来て、集権倭国の騎馬軍の創設に尽力した王将軍が、健在で全ての国に睨みを利かせていた間は、反乱は起きなかった。


西暦265年。

 

 中国で、司馬炎が魏の元帝を廃位し、自ら皇帝となって晋朝を開いた。

 

西暦266年。

 

 10月、伝え聞いた集権倭国の壹与は、すぐに使者を晋に送って、祝意を表した。

 11月、遅れたものの、東倭国の御真木入彦も使者を晋に送り、方物を献上した。


 魏が滅び、帯方郡の影響力が弱くなると早速、倭の国の争奪戦が始まった。

 東倭国の御真木入彦は、父大毗毗が支配した旧東倭国の領土の奪還に動き出した。

 

 先ず、張政が残して行った王将軍を、取り込むことに成功した。

 父大毗毗の妻の縁を頼って、丹波の匈奴と親しい関係を築いていた。

 即位後に婚姻関係を結んだ越国と狛国の軍、旧邪馬台軍は、今でも健在だった。

 集権倭国の諸国王と近衛兵は都に滞在していたが、主力軍は地元に帰っていた。

 

 御真木入彦は、奈良国の将軍となっていた刺肩別を、必死にそそのかした。


「刺肩別よ、好機到来じゃ。

 王将軍は帰る国を失くしたので、旧東倭国領土の奪還に協力してくれるそうだ。

 こうなれば、もう何も恐れるものはない。旧狗奴国の再興も、夢ではないぞ。

 集権倭国から主導権を奪い、我ら中心の世界を作るのだ。

 とにかく、急ぎ兵を集めよ。

 奴国と越国と狛国にも、援軍を頼むのだぞ」


 刺肩別は早急に兵を集めた上で、王将軍とも結託し、東倭国と河内国を急襲した。  

 在京の国王を人質に取ったので、摂津国・山城国・和泉国の軍隊は動けなかった。 

 

 しかし、御真木入彦は、奈良国将軍刺肩別を裏切り、奈良国をも支配下に置いた。


 こうして御真木入彦は、旧東倭国の領土の奪還に成功して、更に、旧邪馬台連合がかつて支配していた、広い領土の簒奪を目論んだ。

 

 奈良盆地の東倭国と奈良国を合わせて大倭国とし、卑し名を改め、大和国とした。

 中央山地から東の国は、大毗古と建沼河別を派遣して、すべからく平定した。

 彦坐王を丹波の国に、吉備津彦を岡山に派遣して、抵抗する豪族を征圧した。

 御真木入彦は、集権倭国から北陸・関東を奪取し、集権東倭国として統治した。

 

西暦267年。御真木入彦は、中国を真似て皇帝と自称し、大和朝廷を主導した。

 

 このため、御真木入彦は大和朝廷で、「はつくにしらす皇帝」と呼ばれた。

 そして、大和国で統治する大和朝廷を、邪馬奴(やまと)朝と呼んだ。

 大和国をやまと国、大和朝廷をやまと朝廷、と呼ぶのはこのためである。


 しかし、九州・中国地方・四国は、依然として王氏が集権倭国として支配を続け、大和朝廷には、卑弥氏と共に共同統治者として代表を送り続けた。

 

 こうして、大和朝廷で奈良勢力と筑紫勢力も争い続け、どちらが主導権をとるかで倭の国の政権争奪は、新たな展開を迎えることになった。


 御真木入彦の後も、暫くは匈奴色が強いやまと朝が続いた。


西暦308年、大帯彦淤斯呂別皇帝が、纏向の日代宮で、天下を統治した。


 皇帝は、小碓命を派遣し、熊襲・出雲・相模・吾妻・信濃を平定させた。

 皇帝の子供八十人を、諸国の国造や県主に任命し、統治させた。


西暦323年、若帯彦皇帝が、近江の滋賀の高穴穂宮で、天下を統治した。


 皇帝は、建内宿祢を大臣として、皇族が着任している以外の、大国・小国の国造を定め、国々の境界と、大県・小県の県主を決めさせた。


 筑紫勢力も奈良勢力も、匈奴色が強い大和政権を受け入れるしか方法が無かった。


 


 

 

 

 

 

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