⑦倭国大乱

西暦180年頃、列島では、倭国大乱と呼ばれる戦が始まった。


 それは、黄巾の乱を原因とする内乱により、大陸で大きな力を占めていた漢帝国の威光が薄れ、漢を背景に大倭国連合を牛耳った委奴国の影響力が弱まった為である。


 委奴国の天照を盟主とする、大倭国連合が乱れ始めた。


 最初に反乱の狼煙を上げたのは、天氏の傭兵に成り下がっていた福岡と筑後の匈奴である。内部から委奴国の主導権を奪おうと、決起した。

 

 天氏の要請を受け、鎮圧に駆け付けたのが、人吉の姫国と鹿児島の投馬国である。姫国と投馬国は筑後で匈奴と対戦することになった。

 姫国と投馬国は共に呉から武器を輸入していたが、匈奴も委奴国が漢から輸入した武器を手に入れていた。

 

 戦の行方を決定づけたのは、兵力の多さであった。姫国も投馬国も、縄文人を多く取り込んでいた。戦艦も多数保有しており、有明海から幾らでも兵力の補給が可能であった。戦場が平野であったことも、匈奴には不利となった。

 

 十年以上掛かったが、姫国と投馬国は筑後にあった匈奴の城の殆どを鎮圧し、福岡へ続く街道沿いの砦に迫り、委奴国の中の、筑後の領土を回復することが出来た。

 福岡の匈奴も、それ以上反乱を起こす気力は無く、委奴国の天照は姫国と投馬国に借りが出来た。こうして一旦は、九州島の連合は落ち着きを取り戻したかに見えた。

 

 しかしその後に、委奴国と姫国と投馬国が主導権を争い、連合が分裂する程の戦を繰り広げた。それに合わせて、九州以外でも不満が噴出し始めた。


 出雲では、匈奴が力を盛り返し、四隅連合と新たな出雲連合を作った。

 その領袖が須佐王である。


 岡山では、四隅連合の力が弱まり、匈奴との新たな吉備連合が出来た。

 その領袖が月読である。


 一方の東大倭国連合では、奈良の狗奴国が、更に強大になった近畿奴国に対抗して防衛体制を固めるため、盆地の東南の奥に新たに纏向を作り遷都した。

 更には、近江盆地に居る越人と、紀伊半島の狛人をも加盟させることに成功して、狗奴国を盟主とする、東大倭国連合の範囲を拡張した。


 その後も、卑弥呼が登場するまで暫らくは、列島の各地で激しい戦争が続いた。

 

 人間は何故、戦争をするのか。

 領土とは何か、国とは何なのか。国と国との連合に、果たして効果はあるのか?


 平和な世界を作る、唯それだけの事なのに。

 現在まで、どうして達成する事が出来ないのだろうか?


 卑弥呼の時代に思いを馳せて、平和を達成するための方策を、模索する。

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