第一章 プロローグ ④激戦となった。
紀元前200年頃、今迄に無い激しい戦が始まった。
それは、匈奴(きょうど)がやって来たからである。
大陸でそれ迄に、匈奴は戦に負けた事が無かった。
その後も、漢の初代皇帝となる劉邦に勝ち、劉邦が貢物を届けた程である。
その匈奴の一部族が秦国に負けた。敗れた匈奴は万里の長城の東側に逃げ出して、半島を南下し海に遮られ已むなく、対馬海峡を渡り響灘沿岸の宗像に渡来した。
匈奴は遊牧騎馬民族なのだが、家畜や馬を連れて海を渡る事が出来ず飢えていた。遊牧は得意だが農業や漁業は不得手で、食料を得るためには他の部族から奪う他に、方法が無かったのである。
秦国に負けて来た匈奴だが、鉄製の武器を持ち、力が強く戦争に長けていたので、急速に支配地域を広げて行った。
響灘沿岸から福岡平野に侵入を始め、越人と激しく交戦して、捕虜を奴隷にした。福岡を占領した匈奴は国を建て、奴国(どこく)と名乗った。
福岡に居た狛人も抵抗したが、堪らずに筑後平野に逃げ出した。逃げてきた狛人に負けて、有明海沿岸の筑後に定住していた姫氏と倭人は、熊本平野に追いやられた。
佐賀に定着していた倭人は、筑後に充満した狛人に激しく攻められたが、逃げ場が無いので必死に抵抗し、何とか踏み止まった。
姫氏は移動の原因を作った奴国を恨み、奴国に拘する拘奴国(こうどこく)と自称したが、後に中国からは、狗奴国(こどこく)と卑称された。
一方で同じ頃、大阪や奈良では戦が無くて、越人が縄文人に稲作を教えて共存し、大幅に人口を増やしていた。
紀元前150年頃、戦は各地に広がり、更に激しさを増した。
宗像から山口に勢力を拡大した匈奴は、斉人を山口から広島に追いやった。一方で狛人を山口から出雲へ追いかけ、島根に居た倭人を三次盆地へ押し込めた。
岡山では、越人が倭人を更に東へ追い詰め、広範囲に勢力を広げた。
紀元前100年頃、戦は更に広がり、ますます激しさを増した。
半島では、漢の武帝が衛氏を滅ぼして四郡を置き、半島全域を支配しようとした。南部で、何とか辰韓と馬韓に抵抗していた弁韓の天氏だが、漢の更なる圧迫を受け、一部を残して対馬海峡を渡り、玄海灘沿岸に侵略して来た。
今度は、福岡に居た奴国が天氏に追われた。奴国は、筑後に侵入して襲い掛かり、
筑後平野を占領すると、逃げ遅れた狛人を捕まえて奴隷にした。
筑後から逃れた狛人は、熊本平野に侵入し、熊本に定着しかけた狗奴国は、再度、
人吉盆地に逃げ込まざるを得なかった。
一方、佐賀に残っていた倭人は奴国に攻められながらも必死に戦い続けた。濊人の応援も受け、決して降伏することはなかった。
三次では倭人と、三方から侵入を試みる斉人・越人・狛人の、入り乱れた戦争が、長く続いた。
大阪では、岡山から押し出された倭人が、越人が占領する平野を侵食し始めた。
紀元前50年頃、戦死する犠牲者が急増する一方、新たな動きも始まった。
半島東部の、斉人や秦人が屯する辰韓で、新羅の前身である斯盧国が建国した。
三次では、倭人と斉人・越人・狛人とが、戦争を続けながら合従連衡を繰り返し、四隅突出墓を作る連合に纏まって行った。
福岡を追われた匈奴の集団が、瀬戸内海沿岸と日本海沿岸を、東へと進み続けた。この緊張が、高地性集落の原因である。狙われる部族と、襲う匈奴の集団が、互いに防御と攻撃の為、共に山の上に集落を作った。
それ以前に和歌山や三重を通り過ぎ愛知に達していた狛人は、環壕集落と方形墓を伴い、山を越えて静岡に広がり始めた。
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