第一章 プロローグ ⑤新たな動き

紀元元年頃、新たな動きが続いた。


 半島の、北東部で狛人が高句麗国を建国し、南西部で馬韓人が伯済国を建国した。


 佐賀平野では、筑後を占領し攻勢を掛ける奴国と、必至に防戦する倭人の、形勢が逆転し始めていた。

 互いに武器の摩耗が激しかったが、奴国には鉄器の材料を調達する術が無かった。

倭人は、有明海を通り狗奴国を経由して、中国南部から秘かに鉄材を輸入していた。


 瀬戸内と日本海沿いを進む匈奴が侵略を開始すると、四隅連合との戦が始まった。

四隅連合は、広島と岡山では山と平野の境に城を築き防戦したが、出雲では入り乱れて激しい土地の争奪戦となった。


 大阪でも、攻める倭人と守る越人との戦が、一進一退しながら長く続いた。集落を囲む環濠が、二重にも三重にも成ったのは、この頃である。



西暦50年頃、鉄器の量が、勢力図を変えた。


 鉄器の量で勝る福岡の天氏は、徐々に南に勢力範囲を広げ、筑後の奴国を攻略し、佐賀の倭人をも併合すると、委奴国(いどこく)と名乗った。

 

 更に鉄器の生産を増やす為、後漢へ朝貢し漢委奴国王印を入手する事に成功した。金印の効果は絶大で、半島を通じて鉄器の材料が簡単に調達出来るようになった。

 

 天氏の委奴国は、更に、東の越人の国や西の濊人の国を連合に加え、連合を大倭国(たいこく)と自称したが、中国からは俀国(たいこく)と卑称された。


 四隅連合は鳥取の妻木晩田と上寺地で砂鉄の鉱脈を発見し、鉄器の生産を始めた。鉄器を最大限に利用し、一旦は匈奴に奪われた出雲の土地を奪い返す抵抗を始めた。


 匈奴の一部は、鳥取を避けて東進し、丹後の匈奴と合流して近畿奴国を名乗った。丹後や丹波に、沢山の台状墓が作られ始めたのは、この頃からである。


 岡山では匈奴より四隅連合が優勢になり、大阪では越人より倭人が優勢となった。



西暦100年頃、勢力図は、更に大きく変化した。


 大倭国連合は、領土の拡大を目指して更に南下した。天氏は豊富な鉄器を背景に、熊本の狛人と人吉の姫氏に、連合に従う様に強く迫った。


 人吉の狗奴国は、大倭国に加盟する派と独自の路線を主張する派に分かれた。姫氏は、主導権を握られることを嫌ったが、連合に加盟すべきと考える派閥が多くなり、領袖の姫波限建は、狗奴国を大小に分け、大きな方を姫国として大倭国に加盟した。


 委奴国王の天升は、必ずしも大倭国連合の独裁的な盟主ではなく、あくまでも倭国王帥(倭国諸王のリーダー)として、後漢に朝貢の使者を送った。

 天氏は、かつて弁韓として馬韓と戦い、戦と政の経験は豊富で老獪であった。


 その頃大阪の倭人は、西から攻めて来る匈奴と、北から攻めて来る近畿奴国と、更に南の奈良盆地で抵抗を続ける越人に挟まれて、その進退が極まっていた。


 天氏の朝貢を知った狗奴国の姫若御毛沼は、姫国と別の道を進むことを決意して、近畿奴国に攻められている大阪の倭人を助ける為、狗奴国として東征に踏み出した。

 福岡の天氏と決別し、広島や岡山に屯する匈奴と戦いながら、大阪へと向かった。


 近畿奴国は、半島から鉄を輸入し兵士の数も多いので手強く、若御毛沼は丘陵地を避けて平野部で本拠地を確保し、軍を強化する戦略を模索した。


 越人が住む奈良盆地は、水田が広くて食料を得やすく、周りを山に囲まれ守り易いので、本拠地にするには最適だった。


 奈良に潜入する倭人の饒速日を使者とし、長脛彦に土地を譲るように交渉したが、応じないので止むを得ず侵攻し、連合を強制した。


 若御毛沼は、倭人と越人の連合を東大倭国(とうたいこく)と称したが、中国からは東鯷国とも、以前のままに狗奴国とも、卑称された。


 

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