第十章 エピローグ ①奈良時代
西暦697年、高天原広野姫帝は、孫の天之真宗豊祖父に、帝位を譲った。
天之真宗豊祖父帝は、病弱だった。一方、その母は精力的だった。
母の阿閉王女は、天命開別帝の四女で、蘇我氏の血が入っていた。
天渟中原瀛真人帝の長男、草壁王子に嫁ぎ、政治への関心が強かった。
西暦701年、病弱な天之真宗豊祖父帝に代わり、母が実質的に政権を担った。
藤原朝臣不比等らに選定させていた、大宝律令を完成させた。
朝廷の儀式を改め、文物の儀礼を整備した。
新しく元号を立てて、大宝元年とした。
冠位・服装を、改めた。
律令制下の身分制度は先ず、人民を、良民と賤民に分けるものであった。
良民には、支配階級の貴族、下級官人、公民と呼ぶ一般農民、品部・雑戸がある。
律令国家の支配階級を構成した貴族は、皇族・皇親・五位以上の官人、である。
官人は、出自や出身に応じて位階を授けられ、位階に相当する官職に任命された。
国政の運営は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言の合議を、皇帝が裁可した。
行政事務を取り仕切る太政官の下に省が有り、更に下の官司が職掌を分担した。
中央・地方の諸官庁には四等官がおかれ、その下に多くの下級官人が配置された。
戸籍に登録された公民には口分田が班給されたが、税金など重い負担を負った。
賤民には、陵戸・官戸・公奴婢・家人・私奴婢があり、不自由民であった。
不自由民は戸籍に登録されず、大寺院や貴族・豪族に所有された。
律令制による国司と、氏族制による郡司が、併存する二重構造が続いていた。
国司は、中央の貴族から任命されて地方に下り、6年の任期で交替した。
郡司は、嘗ての国造等の地方豪族から選ばれて終身務め、世襲も認められていた。
唐の進んだ政治を学ぶため、粟田朝臣真人を、遣唐使に任命した。
西暦703年、粟田真人が中国に着くと、国号が唐から周に変わっていた。
周の都長安に着き、皇帝である則天武后に朝貢した。
則天武后は、皇帝と皇后の事を、天皇と天后と称していた。
則天武后に願い出て、国号と君主号の変更を了承された。
西暦704年、粟田真人が、周から藤原京に帰って来た。
それ迄は、奈良勢力の蘇我氏系統の皇帝を皇(すめらぎ)、筑紫勢力の天氏系統の皇帝を帝(みかど)と称していたが、その後は、奈良勢力と筑紫勢力の融合を図り、皇と帝の資格を併せ持つ天氏の皇の意味で、天皇(てんのう)と称する事にした。
国号を倭国から日本国と改め、更に日本国の君主号を天皇と改めたことを、国内に周知徹底した。
西暦707年、母は、日本根子天津御代豊国成姫天皇として、藤原京で即位した。
和銅元年、はじめて、和同開珎の銀銭・銅銭を、使用させた。
和銅三年、平城京に遷都した。
西暦715年、天皇の長女が、日本根子高瑞浄足姫天皇として、平城京で即位した。
これ以降、現在まで天皇の皇位は継承されている。
しかしこの後も、形を変えて、政権の奪い合いは続いた。
西暦729年、藤原氏は、天渟中原瀛真人の孫の長屋王を、自殺させた。
西暦740年、藤原広嗣は、九州で兵を動員し、乱を起こした。
西暦743年、人口増加に伴う口分田の不足に対し、墾田永年私財法が出された。
自ら開墾した田の所有を永代に渡って保障するもので、荘園の走りとなった。
西暦757年、橘奈良麻呂は、藤原氏を倒そうとしたが、逆に殺されてしまう。
西暦764年、藤原仲麻呂が兵を上げたが敗れ、越前に逃げる途中で殺された。
*参照 山川出版社「詳説日本史研究」
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