第9話星屑のステージ②
本田と陽子がロックBAR《レスポール》へと入店してから、一時間が経過していた。
「そろそろ、始めるか………」
マスターは、そう呟くとカウンター奥の機材を操作し、店内に流れていた音楽を止め、続いて薄暗い店内の照明を更にもう一段暗くした。
いったい何が始まるのだろう………そんな思いで陽子がマスターのその一連の動作を観察していると、恐らくその答えを知っているであろう本田が、思い出したように呟いた。
「そういえば、今夜は土曜日だったな………」
「これから何が始まるんですか、本田さん?」
陽子の質問に、本田は新しい煙草に火を点けながら答える。
「この店では、毎週土曜日は《ライブの日》なんだ。これから、あのステージでライブが始まる」
薄暗い照明の中、ある一面の壁だけが明るいスポットライトで照らされていた。よく見ると、それは壁ではなくステージの前に張られた幕である事に気付く。
陽子の後ろで踊っていたモヒカン頭の男達も、いつの間にか踊るのを止め空いている席に大人しく座っていた。
「へえ―――」
陽子は、興味深そうにそのステージを見つめていた。
「これは、ウチがオープン以来やっている事でね、これを楽しみに来てくれるお客さんも結構多いんだ」
マスターが、そんな説明をしてくれた。
やがて、観客の歓声が沸き上がる中、ステージの幕が上がった。Zip………それが、今ステージに上がっているバンドの名前だった。ボーカル、ギター、ベース、ドラムス、キーボードの五人編成。そのうちキーボードは女性が担当していた。平均年齢は22歳、まだプロデビューはしていないらしい。マスターの話では、今月いっぱいまでこのZipがステージに立つという事だった。
「聴いた事の無い曲ですね。オリジナルですか?」
「うん、彼等はプロを目指しているからね。これは彼等のオリジナルだよ」
陽子の質問にマスターが答える。そして、次にマスターから本田へと質問が投げ掛けられた。
「本田君はどう思う?このバンド」
本田は、咥えていた煙草を灰皿に擦りつけながら、マスターの質問に真摯に答えた。
「曲は意外といい。覚え易いし、メリハリもある………ただ、音が粗い。まだ若いからという事もあるが、もう少し場数を踏ませてやりたい………というところですかね」
その時の本田の顔は、バーに飲みに来た客というよりは、テレビ局の音楽部門プロデューサーの顔をしていた。
「成る程、確かに言われてみればそんな感じもするかな」
マスターは、本田のZipへの評価に納得したように頷いていた。そして、陽子にこんな事を言った。
「本田君のバンドを見る目は大したものだよ。この店のステージからは何組かのメジャーデビューしたバンドもいるが、そのいくつかのバンドの才能も彼は見抜いていたからね」
「私も、そう思います」
陽子もまた、本田の音楽才能を見抜く力を、一緒にしてきた仕事の場で嫌という程思い知らされてきた人間のひとりだった。
「因みに、ヨーコさんは彼等の演奏をどう見るのかな?」
マスターは、今度は陽子に対し本田にした質問と同じ事を訊いた。彼女がこのバンドにどんな評価をするのか興味がある、といった顔だ。
「私は……難しい事は分かりません。でも、彼等を見ていると………
本当に楽しそう! 心からロックを演奏する事を楽しんでいるんだなぁって思います。見ているこっちも楽しくなっちゃう」
「なんじゃそりゃ?」
隣でそれを聞いていた本田が、少し呆れた顔で言った。
「お前、まかりなりにも音楽部門のディレクターなんだからな! もうちょっとましなコメントを……」
本田が、陽子にコメントのダメ出しをしている間、マスターは二人のやり取りを横目で見ながら、相変わらずの穏やかな笑顔で、陽子の言葉を復唱していた。
「楽しそう………か……」
すると、Zipの演奏を何曲か聴いていた陽子が何かを思い付いたようにマスターに向かって尋ねた。
「マスター、変な事を訊いてもいいですか?」
「変な事って、何かな?」
どうしてこんな事を訊きたくなったのか、陽子にも分からなかったが、Zipの演奏を聴いているうちになんとなく興味を持った事柄が陽子にはあった。
「マスターは、この店がオープンして以来ずっとこうしたライブをやってきたと聞きましたが、その35年間このステージに立ったバンドで、マスターが一番凄いと思ったバンドってどんなバンドでしたか?」
このステージからは、いくつかのバンドがメジャーデビューしていったとマスターは言っていた。もしかしたら陽子の知っているバンドの名前もその中にあるかもしれない………といった、軽いミーハーな気持ちから陽子はそんな質問を投げ掛けてみたのだ。
そして、陽子のそんな質問に答える為に、マスターは何かを思い出すように天井のある一点を見つめていた。
「思えば35年間、何百というバンドがこのステージに立った。その中には、プロも顔負けの実力を持ったバンドも沢山いたが………あの時程、その存在に驚かされたバンドはいなかった。演奏技術、パワフルさ、曲の構成、そしてステージパフォーマンス、どれをとっても全てがパーフェクトだった………あんなバンドが日本に、しかもまだアマチュアで存在していた事が、私にはとても信じられなかったよ」
マスターは、遠い昔を懐かしむように目を細めてそう語った。
「そんなに凄いバンドがいたんですか!それっていったい………」
「デビュー前のトリケラトプスですね?………マスター」
陽子がその名前を訊く前に、本田がマスターに言った。
「そうだ。私がまだこの店を始めたばかりの頃だったな………」
そう呟いたマスターの表情は、どこか懐かしそうでもあり、また、どこか寂しげでもあった。
デビュー前のトリケラトプスが、なんとこの《レスポール》のステージに立っていた。現在、トリケラトプスの消息を必死になって捜している陽子にとって、これは衝撃的な事実であった。
もしかしたら本田は、最初からその事を知っていて、陽子をこの店に誘ったのかもしれない。いや、絶対そうだろう。だとしたら、回りくどい事をしないで最初からそう言ってくれればいいのに………本田からの愛の告白を、ほんの少しでも期待していた自分がまるでバカみたいではないかと、陽子は嬉しいような悔しいような複雑な思いになった。
「それじゃあマスター!もしかしてトリケラトプスの現在の居所とか知ってたりします?」
陽子はカウンターから身を乗り出す勢いで、マスターにその事を尋ねた。
「私達、どうしても彼等に会わなきゃならない用事があるんです!お願いします、知っていたら教えて下さい!」
だが、それに対するマスターの答えは陽子の期待を満足させるものでは無かった。
「ヨーコさん、教えてあげたいのはやまやまだが、実は私も彼等の居所は知らないんだよ………」
マスターの答えに、陽子はがっくりと肩を落とした。
「なんだぁ……マスターでも知らないのかぁ………」
なまじ期待していただけに、そのマスターの答えに対する陽子の落胆ぶりは大きかった。
せっかくトリケラトプスの消息を突き止めるチャンスが来たと思いきや、肝心のマスターからは何も情報を得る事が出来なかった。そう陽子が諦めかけた時だった。
隣に座っていた本田が、マスターに別の質問を投げ掛けた。
「マスター、それではトリケラトプスのメンバーの誰かが、最近この店に来た事はありませんか?」
その本田の問い掛けに、マスターは顎に手を当て、何かを思い出すそぶりをしていたが、やがて申し訳なさそうに首を横に振りながら答えた。
「最近は誰も来ていないね………去年の夏、森脇君が来たのが確か最後だったと思うけど」
マスターの言う森脇君というのは、ボーカルの森脇 勇司の事であろう。
「その時、彼は何か言っていなかったですか?どんな些細な事でも構いません」
これじゃ、まるで刑事だな………などと心の中で呟きながら、本田はしぶとくマスターに食い下がる。
「うーーん、何か特別な事は………」
そう言いかけたマスターの記憶に、ふと森脇と交わしたある言葉が浮かび上がった。
「あ、そういえば………」
「何か思い出しましたか?」
「確か彼、今は工事現場の仕事をしているとか言ってたかな………今と言っても、去年の夏の事だけれど」
「ありがとうございます!おかげで大きな手がかりが手に入りました!」
本田は、マスターに深々と頭を下げて礼を言った。
工事現場と言っても、それが東京圏だとは限らない。それに例え東京圏だったとしても、その数たるや恐らく相当なものであろう。それに加え、森脇が今もなお工事現場で働いている保証はどこにも無い。
なんとも頼りない小さな手がかりではあるが、ともかく現状よりは一歩前進した事には変わりなかった。
丁度その時、ステージではZipの演奏が全て終わり、観客からの盛大な拍手が沸き上がっていた。
「ではマスター、我々はそろそろ引き揚げるとします。ご馳走さまでした」
「マスター、とても楽しかったです。また来ます」
「うん、本田君、そしてヨーコさんも、またいつでも飲みに来て下さい」
帰り際、マスターは相変わらずな穏やかな笑顔で二人を見送ってくれた。そのマスターの笑顔を見て、陽子は思い出したようにある質問をひとつだけマスターにぶつけてみた。
「マスター、トリケラトプスは何故解散してしまったんですか?」
もしかしたら、マスターならその理由を知っているのではないかと思ったからだ。
しかし、その陽子の問い掛けに対するマスターの答えは、陽子の想像していたどの答えとも違っていた。
「ヨーコさん、それは君が直接会って彼等に訊けばいい。君達は、きっと彼等に出会う事が出来ると私は信じているよ」
うまく誤魔化されたなぁと思ったが、陽子はそれ以上訊かなかった。それに、マスターの言う事ももっともだと、何故かその時の陽子には感じられた。
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