第19話ENDLESS RAIN④
獲物を狙う肉食獣のような鋭い目をサングラスの奥に潜ませて、その男は前を歩く森脇と前島の後を尾行していた。フード付きの黒いレインコートの両ポケットに左右の手を突っ込み、やや猫背気味に歩くその男の手袋をした右手には、刃渡り約十五センチ程のナイフが握られている。
計画を決行しようと決めた今夜が、月明かりひとつ無い雨天であったのは幸いだった。それに加え、雨で普段より街の人通りが少ない事も、この男に味方していた。
この繁華街を抜け、もう少し人の少ない通りに出た時が勝負だ。失敗は絶対に許されない。もし逃げ損なって捕まるような事があれば、自分は超人気ロックバンド《トリケラトプス》のメンバーを襲撃した犯罪者として、実名入りでマスコミに袋叩きされるのは目に見えている。男は、前を歩く森脇と前島をサングラス越しに憎悪に満ちた目付きで睨みつけながら、ぶつぶつと独り言のように呟いていた。
「大体、デビューした時から気に入らなかったんだ。何が《天才ロックバンド─トリケラトプス》だ。世間の奴らは買いかぶり過ぎてるんだよ! どいつもこいつもトリケラトプス、トリケラトプスって……たいがい、目障りなんだよ、お前らは!」
トリケラトプスのような日本を代表するロックバンドともなれば、その人気に比例して彼等を快く思わない人間もいる。単に感情的な妬み、嫉妬、あるいはビジネスとして彼等を邪魔にしている組織、団体。目映いスポットライトが当たるステージの裏側では、そんな闇が常に存在していた。
森脇と前島は、あと少しで繁華街を抜けようとしていた。自然と男のナイフを握る手に力が入り、その鼓動は幾分速くなっていた。カメラで焦点を合わせるように、男の視界には、もう森脇と前島の二人しか映っていない。
どちらを刺すか?………男は数秒考えた後、標的に森脇を選んだ。
なんと言っても、森脇はトリケラトプスのリーダーであり、メインボーカルである。計画が上手くいけば、バンドに与えるダメージは計り知れない………それ以外にも、傘を持っているのが森脇の方であり、襲い易いのでは?という算段もあった。
そうこう考えているうちに、森脇と前島は繁華街を抜け、比較的人通りの少ない露地の方へと曲がった。
(いいぞ、そのまま行け!)
男は、心の中で呟いて舌舐ずりをした。
そして、頭の中で犯行開始までのカウントダウンをゆっくりと数え始める。
10……9……8……7……6……5……4……3……2……1…………
「ゼロッ!」
その掛け声と同時に、男は森脇の背中めがけて全力で走り出した。距離にして、約
20メートル。路面の水溜まりを弾く男の足音は、降りしきる雨の音に掻き消され、二人の耳には届いていない。
(よし、そのまま振り向くな!)
そう祈り、握り締めたナイフの刃先を前方に向ける。
その距離、約10メートル。
5メートル。
3メートル。
2メートル。
1メートル。
(覚悟しろっ!森脇ぃぃぃっ!)
そして、男が森脇の背中にナイフを突き立てようとした、その刹那─────
パァァ―――――――――――――ッ!
男にとって、予想外のアクシデントが発生した。
男の遥か後方の車道にて、強引な割り込みを行ったタクシーに対し、割り込まれた方の大型トラックが抗議の為のクラクションを豪快に鳴らしたのだ。
いったい何事が起こったのかと、前島が後ろを振り返り、男のナイフを視界に入れてしまった。
「危ねえっ! 勇司っ!」
今にも森脇の背中に突き立てられようとしていた、男のナイフが目に映るや否や、前島は反射的に森脇を両手で横に突き飛ばした。
そのおかげで、森脇は間一髪で難を逃れる事が出来た。しかし、逆に前島の方は森脇を庇ったせいで無防備な隙を作ってしまった。ナイフを持った男を前に、反撃する事も逃げる余裕すら無い。
「晃ぁぁぁあああああ――――――――――っ!」
突き飛ばされた森脇が、声のかぎりに叫ぶ。
前島は自分の心臓を守る為に、咄嗟に腕を前にして受身をとるのが精一杯だった。
そして─────
「何しやがんだあああっ!てめえはあああっ!」
男のナイフは、無惨にも前島の左手の甲を貫いていた。
苦痛に歪んだ表情で膝を折り、その場に崩れ墜ちる前島。その傷口からは鮮血が止めどなく流れ落ち、路面の水溜まりをしだいに赤黒く染めていく。
目的を果たした男はその感情の高ぶりなのか、それとも全力で走ったせいなのか、ゼイゼイと息を荒げていたが、それでもこの場に留まってはいられないと再び走り出した。
「ちょっと待て、おいっ!」
森脇が急いで男に飛び付こうとしたが、辛うじて掴んだ男のレインコートの端は、雨で滑って森脇の手からスルリと抜けてしまった。
「てめえ!待ちやがれっ!」
そう叫び、男を追いかけた森脇だったが数メートル走ったところでそれを思いとどまった。男の事よりも今は傷を負った前島の方をなんとかしなければならない。
すぐに引き返し、前島に声を掛ける。
「おい、大丈夫か晃!」
「どう見ても大丈夫じゃねぇだろ!」
苦痛に耐えながらも気丈におどけて見せた前島だったが、傷口からの出血はかなり酷い。それにギターリストにとって、手は最も大切な部分である。一刻も早く医者に診せなければならない。
「待ってろ! 今、救急車呼んで来るから!」
そう叫び、森脇は近くの公衆電話に向かって走って行った。この頃、携帯電話はまだ重量が3キロもあるショルダータイプの物が最新型で、世の中には殆ど普及していなかった。
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