第20話ENDLESS RAIN⑤
トリケラトプスがレスポールのステージに立ち、メジャーデビューを夢見ていたアマチュア時代から、しだいに頭角を現しようやく登り詰めた日本ロック界の頂点。
しかし、この日を境にトリケラトプスは、山の頂から転げ落ちる石のように、瞬く間に奈落の底へと転落していった。
森脇が呼んだ救急車で病院へ運ばれた前島の負傷した左手は、すぐさま医師によって治療が施された。森脇も前島も、その時には左手の傷に対してそれほど深刻な思いを抱いてはいなかった。骨折という訳でも無く、恐らくは全治一ヶ月か長くても二ヶ月、その位で完治するのではないかと予想していたからだ。
現在トリケラトプスは、ツアーを終えたばかりで楽曲の構想の為の充電期間に入っている。さしあたって、暫くの間は前島が左手の治療に専念していても、バンドの運営に影響の無い時期であった。
ところが、後日の病院での精密検査によって、その後の前島、そしてトリケラトプスの運命を左右するようなある事実が露見された。ナイフが前島の左手を貫いた。ちょうどその位置に、脳からの司令を指に伝える重要な神経が走っていた。その神経が著しく損傷しており、それは現代の医学では修復が不可能な状態であった。
その後遺症により、前島の左手人差し指と中指は、今後一切自力で曲げる事が出来ない。それは即ち、前島 晃のギタリストとしての再起不能を宣告するものであった。
* * *
あの雨の夜、前島は森脇を庇ってその結果、ギターが弾けなくなってしまった。
森脇には、何よりそれが悔やまれて仕方がなかった。こんな事になるのなら、いっそ自分が刺されていた方がどんなに気が楽だっただろう。もし、前島の腕が元に戻るのなら、代わりに自分の命をくれてやっても構わないとさえ思った。
「アイツがあそこまでのギタリストになるのに、いったいどれだけ血の滲むような努力をしたと思ってやがんだよ………それを、俺のせいで………チクショウ………」
悔しさのあまり、森脇が目の前の白い壁を力任せに殴った。
「森脇、お前のせいじゃねぇだろ。あんまり自分を責めんなよ」
渋谷区にある森脇の自宅マンション。今日、この部屋にはメンバーの武藤と森田が来ていた。
トリケラトプスの今後の事を話し合う為に森脇がメンバー全員に声を掛けたのだが、結局、前島は部屋に来る事は無かった。
無造作に缶ビールが並べられた小さなガラスのテーブルを囲み、森脇、武藤、森田が座っていた。
「それで、これからどうするつもりでいるんだ?お前は」
武藤が森脇に向かって尋ねた。
森脇からマンションに呼び出された時から、トリケラトプスの今後について森脇なりの考えがあるのだろう………武藤はそう思っていた。
「言えよ。もう、決まってるんだろ?」
押し黙る森脇に、今度は森田が言った。
森脇は、何か思い詰めたような表情でずっと壁の一点を見つめていた。しかし、ようやく覚悟を決めたようにテーブルの缶ビールを手に取り、それを一口、二口と飲んでから真剣な眼差しを武藤と森田へと向けた。
「トリケラトプスは解散する」
トリケラトプスのリーダーである森脇が、考えに考え抜いて導いた、これが最終的な結論であった。
暫くの沈黙が、その場の空気を支配した。十秒、あるいは二十秒。三人共ただ黙って、自分の前にある缶ビールに口を付ける。そのうち、重苦しい沈黙を破り、ようやく武藤が嘆息と共に言葉を発した。
「やっぱり、そうなるか………」
意外にも、武藤も森田も、表情は森脇が考えていたより穏やかなものであった。恐らく、電話で森脇から呼び出された時より、ある程度の覚悟は出来ていたのかもしれない。
そんな二人に対し、森脇は心から頭を下げた。
「すまない!他にも方法はあるかもしれないが、俺にはこの結論しか出せなかった!」
「いいさ、お前がリーダーだ。お前がそうしたいと言うのなら、俺には異論は無い」
「きっと、お前はそう言うと思ってたさ」
そんな二人の反応に、森脇は心底救われたような気がした。
「ところで、前島にはその事話したのか?」
「いや、晃にはこの後俺が会いに行って話してこようと思う。アイツも呼んだけど来なかったからな」
出来る事なら、前島にも来て欲しかった。しかし、それもまた仕方が無い事だとも思った。ギターを弾けない今の前島がこの中に顔を交える事は、たとえメンバーにその気が無くとも、プライドの高い彼にとって惨めで屈辱的な感情を抱かせる怖れがある事は否めない。
武藤も森田も、その事を気遣い、暫くは前島に会うのを控える事にした。
「じゃあ、俺達はこれで帰るよ。前島にはよろしく言っといてくれ」
「ああ、わざわざ呼び立てて悪かったな」
そんな言葉を交わし、武藤と森田は帰って行った。
日本ロック界の頂点に君臨した伝説のロックバンド──トリケラトプスは、
デビュー3年のこの日、リーダー森脇の決断により栄光の歴史の幕を降ろした。
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