第6話 彦星の遺伝子

『地上アスガルドでは、五色の紙に願いを捧げ、河に流す。すると、河から溶け出した願いはゆっくりと珠になって、このセカイに届く仕組みです。願いはここで叶い、また地上に戻される。これが幸せのスパイラルですよ』


 織姫さまのお話に子供達は心酔している。ねがいを届け終えると、織姫はお話を、子供達に聞かせるのである。地上のお話、このセカイのねがいのお話、最愛の人と会えない間の気持ち。


 聞こえてきた織姫の声に、紗那は甲板で聞き入っていた。今度は船番である。


「ねえ、やっぱり、このセカイは願いを大切にしてて、美しいね」

「そうだね」伊織は素っ気なく短く返答した。まるで必要最低限、という感じだ。


 ようやく伊織が真面目に返答したは目的地について、織姫が最後の願いの光珠を手放した時だった。


 やはり顔は蒼白なまま。


「伊織? 具合悪いの?」との紗那の言葉に伊織は小さく首を振って、またぱし、と手を払った。見れば綺麗な黒檀の眼を少し濡らしている。

 今度はサナが蒼白になる前で伊織は唇を曲げた。


「僕の言う真実より、眼の前かよ。そこまでお馬鹿だと思わなかったから、驚いたんだ」

「お馬鹿って...!」

「こっちは命懸けで調べ上げたのに、バカらしくなってね」


 ――むっかぁ……厭味の王樣の伊織の厭味に紗那はメラメラと燃えた掌をぐっと握りしめた。


「どうせバカだよ! 伊織みたいに頭良くない」


 伊織はズイと顔を近づけた。危うい大人寸前の男の表情が露わになる。どきんと胸が高鳴るが分かった。伊織は泣きそうになっているが分かる。瞳の銀河が揺れて、今にも溢れ出しそうだ。

 (綺麗な伊織、心が強そうでいて弱い。だから、わたしが護らなきゃ。……弱いくせに真実に突っ込むんだから)


「ねえ、そこで泣かないでよ……あたしはどうせ頭良くないし」

「頭が悪いんじゃなくて、頭自体洗脳されてるんだよ。きみは」


(伊織、ちょっと変わった気がする……)


 幼少には一緒に船に乗って同じ景色を一緒に観て来た二人だが、もうそれぞれの景色に変わってしまって、同じ景色を眺めることはないのだろう。


「彦星さまがいないっていっていたのも忘れちゃったんだ?」


 紗那は「彦星?」と繰り返した。伊織は無言で船の波止場に降りた。紗那も続く。


 こんなに美しい世界なのに、伊織の目に色がないように見える。


「ねえ、伊織」伊織は七色銀河海の海岸に降りると、蒼空を見上げる。動かない蒼空は、常にガラスのような硬質で透けて遠くまで見渡せそうだった。


「不思議に思わなかった? 僕ら男と、君ら女はどうして「星迎奇譚」の形のままの生活をしているのか。織姫と彦星が選ばれたあとは、どこへ行くのか。教えてあげるよ。彦星因子。男は女に囚われる。男は女を言い様にする。それは、彦星から始まっているんだって。だから一年に一度しか逢わせて貰えない。それがこのセカイの条理で不条理になった。その男女の距離こそが、この天上セカイの中心なんだ。眼の前しか見ない、馬鹿紗那ちゃん。少し、見えないものも見たら? 


そのでっかい眼ではなくてさ。僕はこのセカイは美しいなんて思えない」


(……ん?)


「忘れさせられちゃったことも、分からないならこれで、思い出させる。あの時の僕はきみをぎゅっと出来たことが嬉しくてたまらなかった。だから、同じように、するしかないだろうな」


 伊織は長い腕で紗那を抱き込んだ。先程より強い抱擁。ひくっと紗那の喉が鳴る。驚きと、解釈出来ない何かが四肢を駆け巡り、脳裏の言葉を揺さぶった。伊織は紗那の肩に顔を埋めた。


「……思い出してくれ。二人で、このセカイを知ろうって約束しただろ……っ」


 伊織の温かさ、変わっていない。


 そう〝変わっていない〟。


 どうして伊織は紗那を抱き締めるのだろう、《いつも》。紗那の眼に七色銀河海と、星宮塔が一緒に映り込んだ。一つ一つの言葉の咀嚼を脳裏が精査する。


 何か、忘れているような、うん、何か……。心の奥底に鎮められた出来事があった。



「紗那……! 無事で良かった……」


 無事? 

〝織姫さまは健在だ〟


 声がする度、伊織の体温が鋭く肌に刺さり続けた。


 視界が傾いだ。気分が悪い。伊織の抱擁は、紗那の脳を揺さぶり続けた。



(そう、こうやって伊織は抱き締めてくれた。それは、わたしが驚いていたから)


 ――では、〝何に〟? 


 そう、何かに〝驚いた〟んだ。


「だめだよ、思い出しちゃ……!」


 遠くから、一人の騎士の目が紗那に釘付けになっているに気付いた。


 ――見据える眼だ。あれは誰。ひとり、こちらを見ている。タマゴから孵化する紗那を見極めるような眼で。


 紗那は腕の中から抜けだそうとするが、伊織の腕力は強い。びくともせず、脚を開いて紗那を支えている。


「離さないよ。洗脳されたならば、脳裏まで支配してやるまで。約束破りは嫌いだよ」


 脳裏がビシビシとひび割れるような感覚がした。コーティングが剥がれる如く。脳に張り巡らされたラップが緩み、今度はガラスのように飛び散って、枷が外れた瞬間、一気に記憶が怒濤のように流れ込んだ。


 雲を突き抜け、蒼空に消えた巨大な蛇。散らばったペレット。倒れた織り姫。織姫を殺した織姫。彦星のいないこのセカイ。伊織の言葉。織姫から預かったものを。


(伊織は、織姫さまは何て言ってた?)



〝僕らには……織姫の心を……に届ける義務がある……〟



 紗那にかけられた鍵が弾け飛んだ。途端に強烈な眩暈と記憶の濁流がやって来た。




「あああああああ……頭、痛い……っ」



「思い出せ。僕と一緒に行くために。僕の織姫の大切な記憶を消しやがって! やっぱり何か後ろめたいんだ! セカイを知るのはきみと僕だ! 戻って来い、僕の元に!」


 紗那の眼に、星の船が映った。そう、女と男の住まいを分ける七色銀河海の対岸で、星の船を見送った。


 ――寂しいって伝えられないまま、一年が始まるんだって。進歩ない。また、逢いたい。逢えたらきっと言うよ。一年なんて耐えられない本当はって。


 脳裏が弾ける感覚と同時に、ガラスの破片が降ってくる。破片には織姫の死に顔、黒い蛇、伊織の笑顔に、小指で交わした約束が宿る。


 ――どうして忘れていたのだろう。今日、伊織に逢うまで伊織への恋心まで。


一年経って必ず逢おう。必ず、このセカイを――。


 プリズム色のセカイは堕ちた。ホッとしたような伊織の少年の終わりかけの微笑みばかりがそこに在った。



 

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