第38話 終着点 太陽プロトンへ


「総帥! ご無事か! こちらへ」


「ノエラ! みんなも」


 迎えに来た天馬に乗り換えて、紗那は空中で停止した。


「まだ星宮塔は無事だよね。簡単には掴まらないから」


 ふんと言い返したところで、同じような桃色の髪の騎士を見つける。


「あれは囮です。護衛艦を引き剥がしますので、総帥は目的を果たしてください」


 紗那はきょと、と天馬の上で眼を瞠った。ノエラは騎士たちと頷きあい、告げた。


「絶対に彼は撃ってきます。既に攻撃予告が出ています。何故、そんな話になったのかを知るのは、貴女だけでしょう。ここを戦渦にしてはならない」


 ――伊織のやつ、ほんっと容赦ないな!


「伊織! 素直になったらどうなんだ、もう抱かせてやんないっ!」


 ち、と呟くと、紗那は天馬を蹴って高く舞い上がった。伊織の戦艦はあまり大きくない。そもそも、仙人の地に戦艦で乗り入れる傍若無人さが気に入らない。


 蒼空を見上げると、黒い影がまた少し大きくなったように見えた。


(やっぱり、近づいている……)


 様子を見つつ、伊織の戦艦に近づいた。その合間も、雲は流れ、蒼空を浸蝕するかの如く、黒い影は差し迫って来ている様子だ。


 でも、何故、急に?

 ふとユグドラシルの木を思い浮かべた。殷の時代のユグドラシルの木々はくすんで、真っ黒に染まっていた。


(まさか)彦星の目覚めを待っていたということは。彦星と織姫は表裏一体だ。あの蛇は、誰が死んで、誰の呪いを背負って、この時代まで突き進んできたのだった?


 ――伊織の抱える闇と、紗那の抱える小さな綻び。


 原因はそれだろう。


「相変わらず馬乗りがとても上手だな。織姫」


 伊織は戦艦の甲板で仁王立ちになって唇を噛んだ紗那を見詰めていた。天翔る戦士の如く、紗那は天馬から伊織に叫ぶ。


「あんたは何がしたいんだ、伊織。あのねえ、ちゃんとあたしに」


 伊織はちょいちょい、と指で紗那を誘導した。


「こっち、来い」


(へ?)思わず織姫らしからぬ声を漏らしてしまった。


「戦うんじゃなかったの?」


 拍子抜けの声に伊織は甲板でははっと笑い声を上げた。


「敵を欺くには味方から。僕の名演技に騙された様子だね」と甲板で両腕を開いて、紗那を引き寄せた。


「この僕が紗那を殺せるとでも? まだ抱き足りないのに?」


 まだ肩を揺すって笑っている伊織を涙目で見る。


「好きも言えないくせに」と唇を尖らせると、伊織は悪びれるどころか、平然と微笑みを見せていた。


 ――なんだ。そうやって人を騙すんだから。で、また言わないんですね――……。


「全艦上昇。予定通り、織姫と僕以外は船から離脱!」


 伊織はてきぱきと司令を下すと、険しい顔で蒼空を睨み、眼を細めた。


「黒い蛇は天空の願いの終着点にいる」

「願いの終着点……」

「紗那、あれが太陽だと思っていた?」


 伊織は天高く輝く光珠を指した。セカイの半分を覆うほどの光珠。よく見ると、願いの光珠によく似ている。


「きみが水晶に溶かした願いは、ゆっくりと粒子になる。水蒸気の原理だよ。集まって、天上セカイの光となる仕組みだ。だが、あの中に入り込んだ蛇をこのままにはしておけないだろう?」


「あ」紗那の気づきに、伊織は寂しそうに笑った。


「願いの坩堝の消滅こそが、呪われた天女の目指す場所だったんだ。既に下層では異変が起きている。願いは水の流れと同じ。循環していたんだ。それをコントロールしているのが、織姫。きみたちだ。あの中で願いはゆっくりと大気に溶けて、何らかの作用を起こして、プロトンパワーになり、均衡を保っていたんだよ。その坩堝を塞がれたら、此の世は殷と同じ。負のエネルギーで最悪の事態になってしまう。このままにはしておけない」


「負のエネルギー……みんな死んじゃうってこと?」


「死ぬより辛いだろうな。どうして生きているのか分からなくなる。残すは自害だ。その絶望に勝てるのは希望を持った織姫だけだ。だから僕は彦星に成り代わった。彦星の一族の僕なら出来ると思った。僕はね、遠き彦星たちの血を引いていたんだ。思い出して。彦星の役目は終わらせることだ」


 伊織は顔をきっと上げた。その横顔は勇ましく、何かの決意に満ちて見えた。紗那は恐る恐る問う。合間にも戦艦はぐんぐん上昇していく。天上セカイの更に上。これ以上上がったら、どうなるのか見当もつかない高さだ。


「伊織、死ぬ気じゃないよね?」

「さて、それはどうだろう。やってみないと分からない」


「死んだら、伊織の大好きなアレやコレ、出来ないんだから、死ぬ気なんかないよね」


 伊織はははっとまた笑うと、甲板に座り込んだ。泣きそうな声にそっと肩を押さえる。


「きみはこのセカイを知りたいと言ったが知らなくていい。紗那は僕とのセカイだけ知ればいい。知るべきじゃないんだ……!」


「伊織、何を見たの? 昨日の伊織と今の伊織、同じ人じゃないみたい」


「どっちでもお好きなほうを選べばいい。愛してる相手との時間は無駄にしたくなかっただけ」


「その割りにはちゃんとあたしに好きって言えてないけど」


「え」再び伊織はきょとんとし、「聞いてたのかよ」と忽ち目元を赤らめて見せた。戦艦は垂直に近く、上がって行った。


「降りよう。僕らは天上人だ。簡単には死なない。願いで護られているから大丈夫」

「ちょっと、誤魔化さないでよ」

「いや、誤魔化させてくれ。起きてたとは思わないだろ……」


「終わったらちゃんと聞かせて貰うからね」


 卑怯者の伊織は逃げるように光一面の大気に、舞い降りた。ユグドラシルで鍛えた心の眼は、伊織と、ユグドラシルを同時に映し出す。伊織のそばのユグドラシルは引っ繰り返って真っ黒になっていた。紗那もゆっくりと大気に降りた。


(ユグドラシルは、彦星たる心を養分に育つ。やっと分かった。真っ黒の心は、腹黒いわけじゃない。痛みだ。血も乾けば真っ黒になるんだから。あれは、伊織の痛みを養分にしているから。どれだけの痛みと、哀しみだ。伊織は何を知って、絶望して、縋るようにわたしを抱いた?)


 紗那は逃げるような熱い逢瀬を思い出し、雫を溢れさせた。


 分からなかった伊織の本心。蒼空を編みたいと告げた男の子の隠れた本心。それはセカイが美しいと信じていた頃の――……。ユグドラシルに委ねなければならないほどの絶望は何だ。


 紗那はぎゅっと伊織の手を握りしめた。


「二人のセカイなんだ。一緒に、いよう。セカイがなくなるなら、終わりは一緒に迎えよう」


 伊織は明白に動転しているようだった。プライドが高い男だから、言葉に拒否を繰り返しているのだろう。

 伊織はごほ、と口元を片手で覆い、赤面した。しかし、天の邪鬼は告げた。


「願いの終着点だ。紗那と来られて良かった。行こう」

「伊織! あたしにちゃんと言ってからにして」


「僕は天の邪鬼なんでね。

 

    ――話は後だ。突っ込む」


(眩い太陽。でもこれは僕らの太陽じゃない。伊織は確かにそう言ったーー)

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