第39話 夜空を彩る約束
***
目が焼け付くほどの眩しさを超えると、そこは暗黒の空に、天の河の煌めきがたくさんの銀河に変わる。ねがいだけで出来たセカイだった。
「静寂だな、意外だった」
星々を呑み込んだ大蛇が近づいて来るが見えた。音がすれば、さぞ怖ろしい話だ。
「気配を消しているのか」
「伊織、あ、あれ!」
目ざとい紗那は上空でのったくっていた黒い蛇を見つけて声を上げた。
「蜷局巻いてる! あれ、殷の時代に昇ってった蛇! 伊織、どうしようか」
――いつか、セカイを手にしよう。二人で。終わるなら一緒に。
約束が夜空を彩る刻が来たようだ。
「殷の蛇は織姫が憎悪を膨らませたもの。織姫の核とは、哀しみに落ちた天女の憎悪。憎悪とは哀しみで、愛おしい人を求める片割れ。さて、きみの手の想いは誰に届けますか」
「あ、そっか!」
紗那はほっと頬を緩ませた。
銀河の半分を埋め尽くす巨大な蛇は、星々を呑み込む憎悪の塊。だが、仙人の話だと、あれこそが、天女が果てた時の怨念の塊だ。ぐるぐる回って、憎悪が愛情に変わる瞬間。そのための発芽で、芽吹き、蕾になって、開花する。つがいを失い、信頼も無くし、ゆきばを喪い、果てた天女の魂も、浄化されれば、セカイは新しく変わるのだと信じて。
繋ぎ合った手と手から、紗那の心に優しさが、伊織の心に愛おしさが満ちる瞬間。すべての願いは、この時の為に。
〝お空のお星様。今日は七夕星迎。織姫と彦星が出逢えますように――〟
うん ねがいはいつだってここにあった。
星を食い散らかす蛇の前に、二人は等間隔で足を止めた。両腕を掲げると、星の光は絹糸のように輝いて細くなる。細々とした光はあたかも絹糸の如く空間を張り巡らせて輝いていた。
しかしそれ以上に黒蛇が大きい。
「しかし、蛇、でかいな……。ねえ、伊織、何か網、ないかなぁ」
「網?」
「夜空の網。作れるよね」
伊織ははっと気付いたようだった。
「いや、僕は……もうアレはやらないと決めている」
「伊織が夜空を編んでくれれば、動きを止められる。蝦蟇は否定したけど、あたしはそのための織姫の能力だと思ってる。残念ながら不器用なあたしには無理」
伊織は今にも向かって来そうな蛇を睨み、首を振った。
「あいつを押さえるほどの網を用意するには精力と時間がいるよ。紗那」
「あたしが戦う。あいつ、ほら、願いのきらきらを避けて動いているから、光が苦手なんだよ」
紗那は周辺を見回し、唇を噛んだ。
「織姫としては、願いを食い散らかしたあいつ、許せない。蹴りのひとつでも入れてやらなきゃ。でもここに一番叶えたいねがいがあるからまだ、死ねないの」
紗那はひとつの願いの宝珠を手にして掲げた。
「伊織の心はここに在る。もう、辛いことは超えよう」
伊織の眼が潤みを帯びた。
「僕の心が人質か。きみらしいよ」
ひび割れるようなカタルシスが視える中、伊織は強く眼を瞑った。
「紗那、よく聞いて。僕や、天上の男は織姫の失敗作の慣れの果てだった。僕は自分のルーツが知りたかった。ねがいはそれだけだったんだ……」
伊織は滔々と雫を溢れさせ、首を振った。
「真実はあまりに僕にとって残酷だった。僕は、どうしていいか分からなくなった。幼少の僕にはまだ「織姫モデル」の記憶があったんだろう。転生ってね、幼少まで前世の記憶を引き継ぐんだと。だから、編めたんだ。今は無理だ。僕に織姫の資格はもはやない」
紗那は無惨に浮かぶペレットの残骸を手で掬った。「見て」と突きだした。
「この願い、誰かが誰かの幸せを願ったものかも知れないよ。明日には終わる命の奇跡を願ったものかも知れない。明日に産まれる願いを託したものかも知れない。叶えられた願いだったかも知れない。伊織、願いは無限にあると思ってない? ないよ。この願いはもう甦らない。でもね……」
嗚咽混じりになった。いつしか、紗那は心身共に「織姫」になっていた事実を知る。核を預かり、紗那自身が織姫になった時、また邪念も蠢いたのかも知れない。
「聞こえるよ。いつからか、願いが読めるようになってたんだ。ずっと願い続けているんだよ。なのに、天上では得体の知れない蛇が喰っちゃったじゃ、あたし織姫の立場がないよ。でもね、あたしは夜空なんか編めないし。ねえ、昨日、どうだった? 良かったんでしょ」
伊織はいよいよ最大級の驚きの後、紗那の前で唇を震わせ、腕で顔を覆って吐露した。
「幸せだった。君をこのまま幸せにしたいって思った。幸せでいたい、幸せになりたい。幸せにならなきゃ、紗那を幸せにするんだって……でも、言葉にはできなかった。どこかで、僕は劣等感を感じていたんだ。男が女に微妙に勝てないその理由を覆そうとして、でも真実は……僕なんかがって僕こそが自分を信じられなくて」
小さく震えた伊織に爪先を伸ばして抱きついた。伊織の腕はしっかりと紗那を捕まえる。
「同じだよ。どっから来たかなんてどうでもいい。幸せにしてくれるって言葉だけでいい。伊織、最後に綺麗なセカイを魅せて。散ったねがいを集めて、また、蒼空へ還そう。二人で」
伊織は紗那の謂わんとする事項を受け取ったようだった。
天女の憎悪は銀河を荒らし、それでも収まらずに制御を失った化け物のように蠢いていた。
大犯の呪場から産まれ、地上に堕とされた天女の哀しみを核として。
――彦星に届けて。
織姫のねがいは、今こそ。
「やってやる。本当は、僕は織姫になりたかったんだと思う。でも、この夢は今日限りでいい。もっとやりたい行為を見つけたから。紗那と」
「うん? なんか、聞くのやめとく」
「それが良いな」
伊織はぶっきらぼうに告げると、指先で蛇が食い散らかした星の光を集め始めた。それは不思議な幻想を見ているようで。残されたねがいは次々に編まれて、伊織の手で夜空の網に変わってゆく。それは古代の呪術のような神秘的な光景だった。
ねがいも、呪いも、憎悪も元は同じ「想い」から産まれるのだと。伊織の指はひとつ残らずねがいの欠片を集めて行った。
憎悪と愛情が出逢った超新星の中。眩い光。命のかがやきが宇宙空間を大きく照らす。
セカイはきっと、希望の光でこうして編まれていくんだ。
(愛情を憎悪に変えた、蓮華の仙人、か。わたしはもう知ってる。愛情は、還るべきとこに、還るべきだと、還れるんだって)
だからもう過去は要らない。
セカイは創れるんだって知ったから。
伊織 ありがとう。
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