第40話 天上の恋
「帝辛さま……あたしを覚えてる?」
「妲己さん、僕を覚えていますか」
蛇に自我は見当たらない。口を開けた。牙は何本あるかは分からない。蛇の動きが止まった。
「今だ! 織姫からのお届け物です!」
紗那はその隙を逃さない。
地上のすべての花を枯らすほどの悲しみはきっと...涙が出て来る。胸が熱くなった。
美しいものも好きな人がいてこそなんだ。ユグドラシル、この女媧がセカイを変えるのなら。
ぽ、ぽぽぽぽぽぽ。蛇の表面に薔薇が咲き始めた。蛇はもの凄い苦しみの形相で体を揺らし始めた。
「受け止めて、帝辛さま! あなたは殷で凛々しかった。伊織を忘れるくらい....」
それはないか。でも紗那は帝辛が好きだったのだろうと考える。
またそんなことを言えば伊織が何しでかすか分からない。胸に秘めておくことにする。
「できた! 紗那、伏せろ――ぉ――っ!」
頭上から星を編み込んだ網が落ちて来た。伊織の手には絹糸が繋がっている。幼少に2人で見上げた夜空と銀河を思い出す。全てはきっとプログラムされているのだろうーーー
閉じ込められた蛇は網の中でのたうち回った。金糸を引きながら、伊織が不敵に微笑んだ。
「これで願いも、地上へ還る。こいつは、天界がバラ撒いた織姫の食い散らかした残骸の集合体だ!」
私達の役目も終わるのだろう。紗那の胸が翳り始めた。
「ところで、何か言ってたね、この蛇をどうしたい?」
「蹴っ飛ばしてやりたかったんだよ! 願いを叶えるあたしが負けるか!」
紗那は踵をコッコと動かした。床がないから、振っただけだが、準備運動は充分だ。憎悪も、妬みもそねみも、全部吹っ飛ばしてやりたかった。
不安が絶え間なく2人を突き動かす。
(織姫と彦星の始祖が消える。アタシたちは、これで終わるかも知れない。でも、願いはきっと叶ったと、地上の子供達に星迎の奇譚として、伝わるでしょう。だって、ほら、こんなに幸せ。地上と天上の絶望の塊は、アタシたちが消し跳ばす! それでも、失望は残るだろうけど、きっと何度でも立ち直れる)
「織姫からの一撃。ねがいを返して貰うからね!。あと、伊織、あんたはちゃんとあたしに好きって言え――っ」
信じて、出来ることを少しずつ。紗那は言葉ももどかしく蛇の蛇腹に飛び込んだ。腕に、顔に、足に黒の邪気が貼り付く。その度に紗那は伊織との夜を思い出す。
憎悪も元は愛情の枯渇だと知ったから。
だから、負けない。
愛されていると知ったから――。
***
――無謀な。憎悪の塊に体ごと突っ込むなど。おかげで、眼が醒めたよ。血は争えないな。
――そう妾を見るな。帝辛。妾が死んで哀しかったのだな。ありったけの女禍を引き寄せよって。でもな、教えてやる。そういう捨て身の愛情が、女は嬉しくてシビれるんじゃ。
――男は身を滅ぼしても好い女を欲しがる。昔から、決まっている約束ごとだ。妲己。
――して、一緒に死ねれば本望か……そうか。想いは残るのじゃな。伝えられて、継がれてゆくと分かったぞ。確かに、届いた。妾の呪縛も――……。
紗那と伊織の前に二つの人影がしゃがみ込んでいる。かつて古代に生きた始祖たちだ。
言葉はなく二人は倒れて動かない紗那と伊織をじっと見詰めていたが、二人が繋いだままの手を動かしたを確認すると、頷いてゆっくりと光の中へと進んでゆく。
源へ還る。
この手は離さないーー
******
伊織がいち早く飛び起きた。
「あの蛇はどうなった!」
見れば今や霧散して、透けた黒の珠になって地上にゆっくりと降り注いでゆく。
「紗那、見てご覧。黒の葬送だ」
織姫は倒れたままだ。伊織はそっと抱き上げた。声が掠れるままに名前を呼んだ。
「きみまで逝くなよ。紗那、僕は君をずっと」
ーーーー。
***
優しい声にゆっくりと眼を開けると、静寂が満ちた銀河には無数の粒子が舞い散ったような天の河が流れていた。七色銀河海にとてもよく似ている。
「綺麗」紗那は呟いて伊織を見上げた。
「あ....」
濡れた頬をそっと撫でる。伊織は相変わらず泣きそうな顔をする。
「そうだった。あんた、泣き虫だったよね」
幼少を思い出して言うと伊織は袖で涙を抑えて、紗那を抱いたまま宙に浮いて見せる。
「下では大騒ぎだろうな。黒が天界から降って来たって」
眼の前をゆっくりと笹の葉が流れて行った。
「あれ! いつか、伊織と七色銀河海で流した笹の船だ」
「そう、セカイは繋がっている証拠だ。闇が吹き荒れて、心を痩せさせるから僕たちが必要なんだ、やっぱりね……僕らの存在がセカイを救うなら、もう手に入れたも同然だ」
紗那は震える唇を止められなかった。
大人になれば理解が出来た。このセカイはやっぱりセカイの条理に支えられているからここに在る――……。
「うん。戻ったら、お別れか。一年後、晴れたら逢えるかな。やっぱり伊織とは一年に一度でいい。このセカイがそう決まっているなら、それでいい」
紗那は両手を広げて、願いの薔薇を撒き散らした後、振り返った。満面の笑みに、振り向いた拍子に揺れた四肢を伊織は抱き締めた。心の奥まで鷲づかみになるような力強さで。
その瞬間、静寂が揺れた。
頽れそうな大気が漂っている。
「やっぱりな。そうなるのか」
伊織の声は、紗那の首筋でくぐもって響いた。
「生と死は揃っては存在していけない。だから、織姫と彦星は一緒にはいられなかったんだ」
「……伊織?」
ユグドラシルが銀河に広がって行く。伊織はそっと手を翳した。
「迷わないよ。僕は彦星としてきみを、きみが決めたセカイを護る。でも、ずっときみの側にいる。大切な想いに変えて、きみと僕の心と体で、永遠の約束をしたね――」
伊織は髪を揺らした。
「彦星は死を支えなきゃならない。お別れだ、紗那。誰かがこのセカイを支えなきゃならない」
「またそういう冗談を」伊織は「冗談だと思う?」と微笑んで眼を細めた。
紗那はゴクリと情景に唾を飲み込む。次元が撓んで、ねがいのセカイが揺らいでいた。
冗談なんか伊織は言わない。
「このセカイは美しくなんかなかった。でも、きみが生きて行くなら、僕は幻想の影でいい。きみがいれば、美しいセカイなんだって思えるよ。僕はきみを抱いた時、初めてセカイは眩しいんだって知った。このユグドラシルと僕のエネルギーは、きっと黒の珠を抑えられる」
「ならあたしもここにいる」
「それはお断り。でも大丈夫。願いの中から、きみを想ってるから」
サアアアアア、銀河にオーロラのような星屑の波が押し寄せた。紗那は首を振った。
「勝手だよ! いつもいつもいつも! 残されたあたしはどうなるの!」
「そうすれば、もう、他の織姫たちを苦しめなくて済むんだ。紗那、千織長官を尋ねて真実を知れ。願いはどこから来て、プロセスで叶っていくか。本当のセカイはどうあるべきか。――愛してたよ。俺のたったひとりの織……」
「聞こえないってば!」
――僕はユグドラシルを騙した。その罰は受けるつもりだ。でも、きみとただ、一緒に――
伊織はどんどん色褪せて、声は細く、遠くなった。気付けば伊織の姿はどこにもなく銀河が広がるばかりだった。天の河はあるのに、織姫は立っているのに。彦星がいないなんて。
紗那は眼を閉じて、願った。織姫なら、ねがいが叶うはずだろう。
お願い、お星さま。
――伊織と一緒にいられますよう…………無理……。
紗那の願いは途中で途切れて消えて行く。手の中の種は2つに割れた。それは○でもなく、歪でもない。しいて言えば心臓のような形状をしていた。
(還ろう)
紗那はふわりと飛ぶ。伊織がくれたセカイなら、わたしは生きる。何故かそう思う。相反するつがいの存在。伊織が死を引き受けて、紗那が生を引き受ける限り、私たちは繋がっているんだ――。
***
天上セカイには、一時的に黒の珠が降り注ぐという事態になり、やがてその黒の珠も透けて消えた。もう黒の珠は存在しない。下層のウェルドの役割も変わっていく。ただ処理をするだけではなく、その怨念を鎮め、また再生し、見果てぬ未来へ還すような方向へと。
その努力の影には、「織姫」の影があったが、今年もひとり、星迎の夜を過ごすが織姫だ。
王紗那は、稀代の織姫として、天上セカイに在った――。
***
――愛してたよ。
俺のたったひとりの織姫。
僕はユグドラシルを騙した。罰は受けるつもりだ。でも、きみと居たかった。
セカイはね無秩序なようでいて、きちんとした秩序があるんだ。伝承の通り、僕ときみは別れなきゃならない。それがセカイを護るなら。
きみが生きる世界を護れるなら、僕はなんだってしよう――。
「二人で世界を創ろう――」
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