第41話 織姫のねがい


 ――気付いて如雨露を持ち上げた。


 屈んで確かめてみると、確かに芽が出ている。銀河海の風に吹かれ、立ち上がったところに、気配がした。


「織姫。ちょうど良かった。下層の経緯報告で逢いに来たのだが」


 そろそろ星の船がやって来る時間――。

 天上セカイの織姫は作業を止めて、波止場に子供達を迎えに出たところだった。

 ふわふわの金魚の鰭を思わせる柔らかい単に、緩くまとめた桃色の髪。手にはいくつものねがいの宝珠――と、如雨露を手にした織姫は王紗那。大層美人で、子供達の憧れを一手に集める麗しき織姫騎士団・総帥。


「千織さん」


 かつての誰かに似た風貌の男が姿を現す。ウェルドと織姫騎士団は、協定を締結し、良好な関係にあった。


「そろそろ船が来るな、と思って。天上セカイも変わりましたわ。あの蛇が呼び寄せていた禍も、なくなりましたもの。これで全ての織姫たちも、子供達も元気に育つでしょう。黒の珠を喰わせていたと知った時は、胸ぐらを掴んでしまいましたがあの時は失礼いたしました」


 ほほ、と口元に手を当てて、織姫は優雅な素振りで笑いを漏らす。千織は織姫の手の如雨露に気付き、問うた。


「もしや、あの種を?」

「ええ。地に埋めて、お水をあげて。ねがいを懸けておりますの。仙人たちとの約束を果たそうと思って。愛情を込めれば華は咲く。一番知っているわたしです。ちゃんと発芽しましたわよ。まだ小さな芽ですが。今朝ほどね。一輪だけですが」


 紗那は夜空を見上げた。たくさんの願いの光珠が変わらず七色銀河海を埋め尽くす星迎の夜。また忙しい数日の始まりである。


「愛情を込めれば。なるほど、子供たちが大好きな星迎の奇譚は貴女自身の話でしたか」

「ええ」と紗那は微笑んだ。

「子供達には『星迎奇譚』と称して語っています。バカな彦星が勝手に天上で、みんなを護っているのよって。悪意がある願いは、それ以上の悪意がある彦星さまが引き受けてくださる。お空からいつでも見ているので、心配ないんです」……ってね」


 織姫は明るく告げると、「見えますか」と腕を伸ばした。ユグドラシルの木々は安定したプリズム色で天上セカイを彩っている。彦星が消えた時、ユグドラシルも消えたが、いつしか天界の織姫の近くに寄り添うように現れたのだ。


「この来し方行く末を辿る樹木が在る限り、彦星は近くにいます。でも、引っ繰り返っていないから、もう悪意を引っ込めてどこかで眠ったのかも知れない。ユグドラシルの木々は彦星と共に在るのですから」


 涙を抑え、紗那は「だから寂しくないんです」と寂しい気持ちを噛み締めた。



 ――伊織。あんたにひとつだけ、聞きたい事項があるわ。



 いつだって星迎の夜、背筋を伸ばして、紗那は夜空に語りかける。



 ――織姫たちと、あたしと、どっちが大切か、天の邪鬼のあんたはちゃんと言えるのかって。



「本当はなんて蒸し返すつもりもないけどね、そういう性格してないしさ」


 長官とのお上品喋りは肩が凝る。紗那はまた一人きりになると、銀河にしゃがみ込んだ。泣きたいときは、そうしている。涙ひとつとて、銀河の誰かに届いて欲しいから。ここで落とした涙は、天空の天の河にも届くのだから。


「やっぱり、このセカイは嫌い。だって、伊織がいないもん……」


 何度の星迎の夜を一人で越えただろう。前夜にはまた会えるのではないかと、たった一度の逢瀬の夜の夢を見て、起きて涙する。織姫にだって寿命はあるだろう。終われば、伊織に逢えるのか。それなら、わたしも一緒にねがいになれるのに。


 このセカイの生と死の永遠の約束は破ってはいけなかった。分かっている。でも、伊織と一緒だからこそ、このセカイを欲しかったのは、かつての恋人たちの想いだったのかも知れない。


ただ、一緒にいたい。


そのねがいは間違ってないはず。


「ねじ曲げちゃったからね。彦星がいない理由。織姫よりセカイを取ったんだって。……嘘だよ。あんたは誰より、弱いのよ。真実に耐えられなくて逃げた臆病者……それも嘘。ちゃんと伝えているから。かつての伊織の言う通りだよ。彦星の名前はあたしを哀しませてるよ」


 ――織姫さま、彦星さまはどこにいるの?

 ――彦星さまはね……。


 紗那はいつかの伊織と子供達の会話を思い出し、再び零れた涙を指で抑えた。もうすぐ子供達がやってくるのに。またノエラたちを心配させる。泣いている場合では……と、水晶の前に見慣れた人影を見つけた。



「蒼杜鵑?」


 呼びかけると、変わらない容姿で、蒼杜鵑は振り返った。


「ああ、たくさんの願いが詰まってるので、我が華仙のみなも甦らないかと、願ってみた」


 数年ぶりの仙人の姿にまた涙が溢れてしまう。天界のどこを見ても、誰を見ても、伊織を思い出す。織姫に憧れ、彦星となった愛した青年がこの世界にかつて生きていたのだと、参るほど、思い知ってしまうから。


「それなら、わたしが願うのに。じゃあ、わたしの願いとして願っておくよ」


「おぬしの願いは違うはずだろう」


 蒼杜鵑は変わらぬ容姿で滔々と告げた。


「おぬし、一度くらい、ちゃんと逢いたいと願ってみてはどうだ。願いとはそういうもんじゃろ。一度でいい。儂らや子供達も忘れ。織姫だって自身のねがいを託しても良いはず」


「……ないよ、わたしのねがいなんかどうでもいい」


「また、憎悪の化け物を呼ぶのか? 素直になるべきじゃ。寂しさは化け物を呼ぶ。掴まれば、全てが憎くなる。そうなる前に、己の心に願うんじゃ。織姫がねがいを託さずにどうする」


 ――織姫が、ねがいを託さずに――……。


 無言で頷いた蝦蟇にハッとする。


(数年前。何故、あの邪念が突然甦ったのか、不思議でならなかった)


 紗那は顔を上げた。


「わたし、願いを叶えながら、信じていなかった……」


「そうじゃ。おぬしはみなの願いを叶えながら、己のねがいを信じなかった。その歪みが原因でもある。一度でいいんじゃ。今日は星迎だ。おぬしの願いもきっと叶うと願え。そういう星空じゃ。一番の臆病者は誰か分かったか」


 紗那は涙目で頷いて、「でも」と足を止め、顔を覆った。もう絶望は嫌だ。自分が弱いと罵られるほうがいい。


伊織がまた戻って来るなんて、期待は恐い。


絶望はいやだ。


「期待するが恐いか」蒼杜鵑が顔を覆ってしゃがんだままの紗那の前に屈み込んだ。


「信じて、絶望に乗っ取られ、再度裏切られるは恐いか。でもな、願いなんておぬしは叶えちゃおらんのよ。願いは各々の心の光じゃ。心の奥底の自分自身に語りかけているに過ぎん。天上セカイの願いのシステムは単なる願いの流通。流れて来たら誰かがやらねばならん。織姫、本当に恐いは、全てが信じられなくなることじゃないのか? 景色を見ぃ」


 蒼杜鵑は周辺に視線を向けた。紗那も視線をあげると、虹色になった願いがたくさん二人を取り巻いていた。前に進むための覚悟を形にするなら、ねがいになるのだろう。紗那は揺らぐ視界を細くして景色を眺めた。銀光りしたセカイは、伊織が愛したセカイだ。


 雫に封じ込められたセカイはまたひとつ、零れ落ち、また瞳に宿る。


「綺麗……あたし、この星迎の夜が好きだった」


「みなの願い、夢は美しい。さあ、一度くらい、織姫として願いを託せ。信じて、おぬしの願いの珠を掬うんじゃ」


 ――ようやく分かった。


「わたしはねがいを信じていない。信じるより、絶望が恐かったから。だから、珠が掬えなかったんだ……だから、伊織は消えたんだ……わたしが強く願えば良かった!」


 紗那は伊織と別れた後を想い描いた。


(あの時ですら、わたしは最後まで願えなかった。ああ、やっぱりって納得さえした。何故なら、そのほうがラクだから。諦めてしまえば、傷付かないから。それじゃ駄目なんだ。ねがいはわたしだけのもの。わたしが、わたしを信じないでどうするんだろう……誰がわたしのねがいを叶えてくれる? 自分自身なんだよ、結局)


 紗那は両手を組み合わせた。心はあの時の静寂と、伊織が教えてくれたゾクゾクの感触。でも、このゾクゾクの真意はもう知っている。


 ――期待だ。希望が生まれる感触だと。


(伊織にもう一度、逢わせてください。貴方に今、とても、逢いたい……!)


 心を、からだをひとつにしたあの夜が甦る。あの時、伊織はわたしになにを残したのだろう。


(初めてのキスはお互い唇を震わせていたね。伊織も言葉にできなくて)


 ゾクゾクと溶けるような感触の中、一度だけ強く願った。


〝ずっと、伊織と一緒にこうしていたい〟


 ――いつか、セカイを手にしよう。二人で。終わるなら一緒に。


 煌めく七色銀河海は雨上がりの朝露のようにしっとりと水面を輝かせていた。浮かぶ様々な色の渦に、ぽん、と桃色の珠が浮かび上がった。ある日の伊織を思い出した。確かあれは、紗那が珠を拾えなくて、泣きべそを掻いていた時、伊織は紗那のねがいの色は桃色だと告げた。


 いつも、伊織は期待を捨てずに紗那だけを想っていた。


『紗那ちゃんの願いは、こっちの色でしょ』

『これ以上、逃げるな。もう紗那でいっぱいなんだよ、僕は!』


(わかる。あれは、あたしから産まれたねがいの珠。呼んでいる、ねがいが、あたしにあたしを叶えてと)


 そっと銀河に手を差し込んだ。初めての己の願いの珠は、柔らかく、ちょっとでも爪を立てると傷がつきそうにまだ、熟していなかった。


(伊織のようだね……傷付いて、それでも世界を選んだ天の邪鬼な彦星の心を思い出すよ)


「蒼杜鵑」俯いた紗那は涙声で仙人の名を呟き、顔を上げ、泣き顔を晒した。


「あたし、毎年、必ず願うから。叶わないからやーめた、なんて二度と言わない。あたしの願い、大切にする。バカだった……一番強いはずのあたしが、信じていなかった。ねがいを信じたかったのに、出来なかった! でも、もうそんな弱さは要らない」


 蒼杜鵑は「さあ」と水晶の前で、紗那の背中を押した。


 ――溶けて、あたしのねがい。


 あの時、伊織と融け合ったように。天にいる彦星に今こそ想いを届けよう――。

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