第42話 傷心の織姫

 紗那の震える手から離れたねがいの宝珠はゆっくりと水晶に呑み込まれて、輪郭を無くしていく。ゆっくりと小さな粒子になって、天の河のひとつの雫になっていく。静かに涙目で見送って、紗那は天女さながらの微笑みを浮かべた。不思議と心は穏やかだ。やっと落ち着ける場所を見つけた様子だった。


 傷心のまま美しく生きられたら...それがわたしの願いなんだ。


 紗那は光の中振り向いた。


「蝦蟇、毎年、一番にあたしのねがいを信じるよ。そうすればきっといつか」


「いや、毎年じゃないようじゃぞ?」


 気配を察して振り返った。蒼杜鵑はふいっと背中を向け、「遅かったのう」と蝦蟇の姿でべったんと歩き始め、「よく銀河を見ぃ」と杖で七色銀河海を示した。


 ――織姫さまと彦星さまが、仲良く過ごせますように。

 ――今夜も晴れますように。織姫様が彦星様と出逢えますように。


 ――好きな人たちが、幸せでありますように。

 ――小遣い上がりますように。

 ――永遠に彼女を好きでいられますように。天の河で恋人たちもきっと――……。


「ねがいの大半は、おのれらの幸せを願って流されるんじゃ。仙人の身で、地上の願いを無碍に出来ん。ここまで願いが多いと、叶えられなければユグドラシルが臍を曲げてまた引っ繰り返るわ」


 蝦蟇の言葉など、もう靄のように伸びてしまって聞こえなかった。呆然と前方を見る紗那に、蒼杜鵑の凛とした声が重なった。


「いくら蛟龍貴人といえど、どの次元に飛ばされたか分からん捜索は骨が折れたと見えるが、今日は星迎じゃ。織姫と彦星は出逢うべき夜。それが正しいセカイになるんじゃ」


 遠くから、貴人の爪を鳴らす音が近づいて来た。


「――っ……嘘でしょ……」


 口元を抑えた指の合間から、声と涙が溢れ出た。貴人は前にも増してボロボロの風体で近づいて来た。その腕には、ぐったりした伊織の姿があった。ぐい、と伊織を織姫に押しつけて、背中を向けたが、翼はボロボロでもう飛べそうにない。


「どうして……」


 貴人は変わらず無愛想に告げた。


「この頑固な彦星を時空から無理矢理、殴って引き摺り出した。まだ気絶しているが」


「我らとの約束を果たした織姫への褒美じゃ。もうじき華が咲き、我らのセカイも始まる。たった一輪。そうやってセカイは出来ていくんじゃ。おぬしのねがいが光になった。確かに置いて行くぞ」


 ぐったりした伊織を置いて、仙人たちはさっさと消えようとして足を止めた。


「悪夢の時空から引き摺り出された眼に映るは、愛おしい織姫。それで良い。あとは其方次第じゃ」


 この願いは織姫か彦星か、どちらの願いが叶ったのか。或いは、両方か。


 今宵は星迎の夜。織姫と彦星が唯一天の河で逢瀬を赦される夜。


(伊織、ごめんね……あたしが一番自分の願いを信じていなかったんだ。でも、願うって、大切なことだったね。もう大丈夫。だから、願うよ、また、いっぱいあたしを愛してって――)


 伊織は殴られたようでほおを腫らしていた。綺麗な顔に相応しくないようでいて、不思議な男らしさを感じる。


「眼を、開けて、お願い」


 希望がないなど、二度と思わない。紗那は力一杯伊織に飛び込んだ。押しつけた肩に、伊織の睫が動いて、ゆるく、紗那を掠るまで。嗚咽と同時に伊織の手が紗那の後ろ頭に添えられる。


「紗那……」

「伊織、ごめん、伊織――っ! あたしが、願えば良かったんだ。恐くて、裏切られるのが恐いほど、伊織が好きだったんだ。どうしよう、涙、止まらないよ……」


「知っていたから」


 伊織は涙目の紗那に向けてふっと笑うと、ゆっくりと紗那の泣き腫らした頬を両手で包み込んだ。そういう伊織の頬も、見事な天の河。キラキラと光らせた涙を互いに指で撫で合った――。


***


 一年に一度だけ逢える、などというルールが焦らされた恋心を更に煽る。今夜も織姫星宮塔への星の船は黄金に輝きながら、七色銀河海を航る。


「ねえ、彦星さまは~?」


 子供達に一人の少女が告げた。


「彦星さまの名前は内緒だよ。お名前を出せば、織姫さまが哀しむんだって、前に聞いたの」


 子供達は不思議そうな顔をして見せた後で、一人が告げた。


「でも、あそこに一緒にいるよ。織姫さまと、彦星さま」


「そんなはずは……ええ? どうして?」


 銀河海の海岸で、寄り添い合っているシルエットは星空の元に美しく景色に馴染んでいた。


***


「星の船が来たようだ。この続きはまた後ほど、かな」


 子供達の声に気付いた伊織が肩を竦めた。


「結局、このセカイのルールを、僕たちが変えてしまったことになるのかな」


「そうだね。……今も思い出すよ。どうして彦星さまはいないのかって答。伊織は「織姫さまが寂しがる」って答えていたよね」


 紗那は泣き笑顔で告げた。


「傷心の織姫も今日からは、織姫が寂しがってちゃんと願えば、彦星さまは絶対に逢いに来てくれる、にする。星迎奇譚のお話、みんな喜ぶだろうし幸せいっぱいがいいよね」


「これから一晩中、仲良くします、も希望かな。ははっ。逢瀬とはそういうものだよ」


 伊織は変わらない優しげな笑みと共に、泣き腫らした紗那の頬に唇を掠らせて付け加えた。


 くすぐったい。泣き笑いを繰り返して、紗那は嗚咽を堪えていた。


「紗那、僕はユグドラシルを見守りながら、色々なセカイを見た。このセカイのこと……愛すること、色々ね。きみに教えてやりたいことが山とある。しばらく見ない内に泣き虫になった?」


「伊織のせいだよ。でも、これは嬉し涙だからいいんだ。うん、聞かせてよ、セカイのこと」


 プリズム色になったユグドラシルは、いずれは蓬莱と呼ばれ、幸運の樹木になる。もうユグドラシルは哀しみで引っ繰り返らなくていい。悪意を呼ぶ寂しさの蛇はもう消えたのだから。


 これからもきっと絶望はある。失望だって背中に控えている。でも、それだけではセカイは終わらない。


 織姫と彦星の託したねがいが叶うはもうすぐかも知れない。


 銀河のほとりのシルエットはゆっくりと織姫の雫を合図に今、ひとつになる。


 伊織は紗那を抱き締めながら、蒼空に天の河の走る七色銀河海を眺めていた。

 どこまでも海でどこまでが銀河か不明瞭なこの天上セカイ。


 漣が一瞬消えた。磨かれた水晶の如きなだらかな水面に、二人の寄り添い合う姿が映っている。傍には大いなる木々が七色に輝いていた。


(三枚目の絵を想い起こした。織姫と彦星を引き裂くこのセカイを真っ向から否定するような、二人の逢瀬を願って描かれていたんだ)


「君を愛し護ろうとする男の僕、君に甘えて意地をはる女の僕。統合はまだまだ先だな」


 伊織は遠くなった孤独の次元を思い返した。


 傷心したハートの先にある男女の愛。

 きっとそれは世界が求める大きな太陽の爆発にも似ているのだろう。


 だから僕たちは闘ったんだ。互いのために。

 そうでしょう?


 伊織は愛情を込めて、穏やかに微笑むと、紗那を双眸に映し返した。


「何より、ずっと言いたかった言葉がある」


 伊織は腕を引き寄せて近くなった紗那の耳にそっと囁いた。紗那の耳飾りが揺れる。


「ただいま、僕の織姫。いつだって君が好きだった。ここからは一緒に、生きよう――」


 セカイは2人を受け止めたのだから。

 2人はセカイの不条理を受け止めたのだからーー


 だからもう、一緒に生きられるだろう?


 傷心の織姫 了

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【傷心の織姫】願いの行く先 天秤アリエス @Drimica

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